トルストイの前で詩吟を吟じた日本人
トルストイの前で詩吟を吟じた日本人……??
え!そんな人いたの!?
その人物は、徳富蘇峰という人で、先日のナチュラル詩吟道場(上記写真)では、彼の詩を稽古したわけですが、その話しはとりあえず後半にとっておくことにして、今日のレッスンでとっても嬉しいことがあったので、報告します。
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詩吟をはじめて2年ちょっと、とっても声の小さな生徒さん。普段からあまり声を出す機会がないので、このまま年齢とともに声が出なくなったら困る、ということで、まずは、声を出す機会をつくるため、という名目で詩吟を始められました。
以前、ちょっとお話しを伺ったときに、「子どもの頃、学校の先生に『もっと大きな声を出しなさい』と言われたが、その出し方がわからない」ということを言っていたのが印象的でした。
そんな彼女が、今日のレッスンでとっても嬉しそうに、
「大きな声が出たんです!」
と私に報告してくれました。
どうやら、彼女が通っている趣味の講座で、先生に質問のコーナーで、100人くらいいる教室の後ろの方に座っていたそうなのですが、マイク無しで、先生に質問を投げかけることができた。それも一発で。聞き返されることなく。
「ちょ!それは相当すごいことですよ!!!!」
と私。
「そのときの発言、ここでもう一度やってみてもらえませんか?!」
と無理をお願いする私。
「○×△□!!!!」(再現)
と生徒さん。
のけぞる私。明らかに詩吟より大きな声が出ています。
彼女は「詩吟を続けてきたから出るようになった」と主張してくれていますが、どうにも信じられません。だって、詩吟ではそこまで大きな声は出ないんですよ!!
むむむ!
よくよく聞いてみると、彼女がその講座で投げかけた質問には、確信があった。そして、とてもいい言葉だったという……。
むむ!
確かに、大きな声を出すコツは、「相手にどう伝えるか」よりも、「何を伝えるか」を確信することである、というのが一つです。
そして、「いい言葉」。
詩吟では、「いい言葉」しか吟じません。
なぜなら、「言霊」という通り、声に出した言葉は現実になるという昔からの言い伝えがあることから、伝統として詠い継がれる言葉にはいい言葉にしかありません。
む!
それが原因か!?
……。
どうやら違うみたいです。
彼女曰く、「とっさの必要なときに大きな声が出るようになった」。
これは、私が大きな声を出す稽古で取り入れている、
「マジで車にひかれそうになったときに出す声の練習」
の成果もあるかもしれませんが、
彼女はその「とっさの大きな声」すら以前は出なかった。
それが出るようになった。というわけです。
もう一度、その講座で出した言葉を再現してもらいました。
何とも力強い!!!
でも確かに詩吟の発声に似てる……。
私:(はっ!)
彼女は、全く詩吟と関係ない言葉を発してるのに、まるで詩吟のようでした。そこで私は気づいたのです。やっぱり詩吟的発声が大きな声と、多勢の中で、遠くにいる人に向かって、大きな声を出す勇気をもたらしているということを……。
「その講座で後ろの席から質問をバンバンしてください」
というのが、今回の宿題となりました。
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もう一つ。 今日の別の生徒さんの話し。
彼の知り合いの外国人の方が、日本の女子大生は「マジで、ヤバい、超」の三語しか話さない、と言っていたから、それは「女子大生の仲間言語であって、決して彼女らがバカなわけではない」と解説し、その外国人はいたく納得し、感心したとのことでした。
そんな彼が稽古していたのは、勝海舟の「偶感」という漢詩。幕末の危機を憂いた内容で、ピークには、「何事をかいかんせん」と吟じます。ここがまあかっこいいし、いつの時代も、どんな人でも共感せずにはいられません。
この「何事をかいかんせん」ですが、解体すると、「何事をか」の「か」は、単体で意味をなさない助詞、「いかんせん」の「せん」は動詞を補う助動詞。意味は、「どうしようか、いや、どうにもできない」という否定語になります。
実は、日本語を日本語たらしめているのは、この助詞や助動詞で、これらは、日本語特有能の主語を必要としないかわりに、主語を説明する役割を持っています。
そう考えると、ややや!「いかんせん」は「マジか」ともとれるし、「何事をか」の「か」は「超」や「ヤバい」の役割をしているのではないか……。ということは流行り言葉はまさに助詞なのである!そして、ここからが重要!
「いかんせん」などの助詞的言葉は現代にはまったく残っていません!
だからこそ、流行り言葉であって、面白い。つまり、声に出して言っててかっこいい!
もしかして、詩吟の面白さの一つはそこにあるのではないか……。
ある種のかっこいい言葉を大きな声で言い放つ!
「マジで!!!」(いかんせん!!!!)
だからこそ、詩吟では、助詞を(例:「何事をか」の「か」)を 長く伸ばし、こぶしを回し、強調する、というのが、今日気づいた私の説です。(なんのこっちゃい!)
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と、まあ充実したレッスンの毎日なのですが、最後に、表題のトルストイの話をします。
トルストイといえば、ドストエフスキー、チェーホフに並ぶロシアの大作家です。
そして、なんと、このトルストイさんに詩吟を聞かせた日本人がいたそうな!
それが、徳富蘇峰(明治〜昭和期のジャーナリスト・批評家・歴史家)です。
ときは明治29年(1896)、当時33才の徳富蘇峰はロシアに渡り、知人の紹介でトルストイ会い、晩餐を楽しみ、その後「何か日本らしい歌を」と、トルストイにねだられて、詩吟を吟じるんです。
ここからが悲劇。
トルストイの息子の嫁さんたちが吹き出す。
トルストイも「笑うヤツは隣の部屋に行ってなさい」と紳士的に振る舞ってくれるが、笑いをこらえている。
徳富蘇峰はそれにもめげず、二曲目、三曲目と「べんせい〜しゅくしゅく〜」と吟じた。
と、まあそういう話しなわけなんですけども、何が言いたいかというと、文化の違いはとりあえず笑われるってことです。(涙目)
徳富蘇峰の詩吟がとんでもなかったという見解もあるかもしれませんが、私も海外で詩吟をやったときに、最初は笑われるか無視されるかでした。
我々だって、突然来日した外国人がどんなに上手いか知らないけど、突然わけのわからぬダンスを異邦人にされては笑うなりするしかないわけです。
とは言え、笑われるってことは、芸術的水準はまだまだってことは明白で、当時、トルストイの日記には「建築や絵画には世界的水準があるけど、音楽にはまだない。…日本人がベートーベンを聞いたら私たちと同じ反応を示すだろう」というような、もったいないくらい優しい内容を書いています。
なんだかもどかしい感じもしますけど、、、。
私が思うに、詩吟が笑われたポイントは、理想論的ではありますが、
「バカ正直なところ」
なんじゃないかなと。
詩吟のいいところは、上手かろうが下手かろうが、みんな一生懸命に歌うところです。
そこがなんだか、いじらしく、可笑しい。
だから、聞く人は時に笑ってしまうし、
へんに怒ってしまうし、
妙に納得してしまうんだと思います。
あとは、外国人に対して自国の歌を披露する、その勇気ですよね。
自分の国でだって、人前で大きな声を出すことはなかなか勇気のいることです。それを後押ししてくれるのが「詩吟」であって、それは120年前も今も変わらないってことです。
だから「詩吟はすばらしい!」
おしまい
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