詩吟は、人とつながることができる

発表会前の発声練習。4歳の生徒さんと。

私が詩吟をやっていてよかったなー、と感じる理由の一つに、普段の生活だけでは決して出会うことのないような人に出会えるということ、というのがあります。


例えば、上の写真にある4歳の生徒さんだったり、ナチュラル詩吟教室の生徒さん全てがそうなのですが、いい意味で友だちにも職場にもいなかったようなタイプの方との出会いがある、ということです。


ひとえに年齢のターゲットもないので年の離れた方も多い。また、様々な職業の方がいる。とりわけ共通項がやっぱり詩吟なので、歴史や文学の話もできる。そうでなくても、詩吟というわりと変わったものをやろうという人とは、何か通ずるものがある。


こうして今までにない仲間意識のようなものが働いて、未知なる未来にワクワクドキドキするのもまた詩吟の愉しみです。


それにも増して、活発な生徒さんは、ご自身の元々あるコミュニティーで詩吟を披露し始めて、その楽しさ(詩吟を知らない人たちの前で吟ずる歓喜)に ハマってしまっている人もいます。


私が詩吟を好きな理由の一つにそれがあって、できるだけ生徒さんにもそのような経験を進めているのですが、そのなかでもある50代男性の生徒さんから結果報告がありました。


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昨日、「春日の作」を吟じてきました。
(中略)大学の同級生8名の集まりでした。


学生時代は怖いものがなかった我々も、30年経った今では、仕事、家族、健康、髪の毛など、皆、何かしら挫折や悩みを抱えていて、そんな話で盛り上がりながら、ブルガリアワインをしこたま飲みました。


その終盤に吟じたわけですが、私は、春日の作は、吉宗時代になって更迭された新井白石が、色彩豊かな春の日や葡萄酒に、自分の過去の短かった輝かしい日々を重ね合わせたものではないかと最近考えているので、そんな気持ちを込めて吟じました。


イタリアンのテーブル席で、他のお客さんもいたので静かに吟じましたが、我ながら哀調を帯びた吟ができたようで、終わったとき、一瞬の間のあと、みんな大きな拍手をしてくれました。意外なことに、他のお客さんたちからも拍手をいただき、店のオーナーから「アンコールどうですか」と言ってもらえるほどでした(さすがに遠慮するだけの理性は残っていました)。こんなとき、詩吟を習って本当に良かったと思えますね。

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この報告メールを読んで、携帯電話片手に街を歩きながら一人で微笑んでしまいました。


「春日の作」というのは、江戸時代の学者であり官僚でもあった新井白石の晩年の漢詩なのですが、その内容は、”美味しいワインでも飲んで酔わなければ愁は吹き飛んでくれないだろう” というものです。


これを吟じたその生徒さんがこの詩に心を寄せて、それを吟ずる。彼の吟は所謂カラオケが上手いとか歌が上手いとかそういった類いのものではありません。しかし、詩吟を知らない、たまたま周りに居合わせた人までもを巻き込む魅力があった。



これはいったいどういうことなのか?



この問いは、詩吟とはいったい何なのか?という問いにもつながります。



私が思うに、詩吟という行為には、人とつながることができる、という原始的な喜びがあるのだと感じています。



手塚治虫の幕末を舞台にした『陽だまりの樹』という漫画(めちゃくちゃ面白いのでオススメ)では、主人公の実直な男・万二郎が、ことあるごとに藤田東湖の漢詩を吟じて、偉い人に認められたり仲間を作ったりしていて、人間関係を築いていきます。つまり、詩吟が重要なファクターになっているのです。


藤田東湖の漢詩それ自体が思想そのものでもあるのですが、それ以上に、「詩吟か!?(よ!?)」と相手を驚嘆させる。


吟ずる詩の内容以前に、大きな声で人前で声を出すということが、何はともあれ感動的で、人の心を動かすのではないか、と思っています。


歌が上手い下手ではない、どんな場所でも(節度を持って)、吟じますよ!という行為、それが人として面白いのではないでしょうか。


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今日の稽古では、社会人になったばかりの生徒さんが、先月の発表会の後(頑張りすぎたせいか)、一週間声が出なかったそうなのです。それはそれで心配なのですが、会社でそのことが広まって、全然接点のない遠い部署の人から「詩吟やってるんだって?」と声を掛けられるようになったとのこと。


それ以前に、新入社員歓迎の飲み会で、なぜか「習い事当てゲーム」なるものがおこり、「和風です」とヒントを出したら、「詩吟でしょ?」と一発で当てられたとのこと。


その生徒さんは詩吟はマイノリティ(少数派)だと思っていたから、もしかしたら詩吟はマジョリティ(多数派)で自分が無知だったのでは?、と不安になったとのことでした。


私はその話を聞いて、彼女も含め20〜30代の私たちにとっては実感がないのですが、詩吟はもともとかなりの多数派で、例えば戦前戦中のカラオケ以前の世代は多くの人が嗜んでいた。だからこそ、 敢てとりだたされないほどのものだった。


しかし、文化というものは、その次の世代では反抗して流行らない。所謂、カウンターカルチャーなるものがある。 つまり、私たち(20〜30代)の親世代には流行らなかった。それを経て、またじわじわきている。と言えなくもない。


これはどういうことかというと、時代によって波はあるけれども、少なくとも詩吟はスタンダードな文化なのである。庶民レベルで歌を歌うこと、文学に親しむこと、歴史、言葉、ご先祖に思いを馳せる。そして、それら全てをひっくるめた詩吟を媒介に、人とつながることができる。そのこと自体が大きな文化なのです。


つまり、何が言いたいかというと、そういった大きな視点から見るかぎり、詩吟はなくならない、ということです。


確かに全盛期よりは人口が減ったかもしれない。しかしながら、一世代前よりは活気づいていることは明らかです。今後もしかしたら流行るかもしれない。そしてまた忘れられるかもしれない。だからこそ、詩吟はなくならない。だからやり続ける、と私は思っています。


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先の新入社員の彼女曰く、


「今度作る新しい名刺の裏に、”詩吟女子”って書きたいと思っているんです!」


「おお!そしたら、いつでもどこでも吟じられるようにしておかなきゃね。」と私。


しかし、詩吟を知らない人の前で吟ずることはとっても勇気のいることです。


「大きな声を出すということは心を開くことだから、それだけの勇気をもって心を開くと、上司でも取引先でも、信頼されるようになるんだよ〜。」


と真剣な顔で言ってから急に恥ずかしくなって、


「なーんちゃって!」と言ったら、


「先生!」と言われて、笑ったのでありました。


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