今日泣いた話。だから私は詩吟をやめられない

詩吟でよく吟ずる松尾芭蕉も訪れた岩手県平泉にて

私がナチュラル詩吟教室を始めてしばしば、震え上がる感動が多々ある。

繰り返しになるが、だから詩吟がやめられない。

ちょっとぞっとする。それほど真をついてくる。

誰が?

生徒さん、なのである。


ナチュラル詩吟教室を始めて3年目くらい、本当に上手になられて、もういろいろいいくらいな生徒さんとの稽古での話し。



とても熱心で素直な方で、そしてずっと詩の意味には近づけないと言っていました。



私は『詩吟女子』を出版して、彼が少しでも詩に近づけたらな、と期待していました。本を買ってくれたのですが、読みましたか?と聞いても、まだです。もう一度、読みましたか?と聞いても、すみません、まだです。今日、三回目の読みましたか?を聞くと、ぱらぱらとしましたが読んでません。読みたくないのです。といいます。


なぜなら、彼は、詩吟を吟じることによって、じわじわと詩に近づきたいのだそうです。簡単に詩の意味など知りたくはない、ということ。


それはつまり、詩吟の起こった源流に即していて、かつて江戸末期に、詩吟が起こった由縁が、詩を声に出して吟ずることによって、自ずとその意味がわかる ”読書百遍意自ずから通ず”(読書は百編やって自ずとその意味がわかる)というのを体現したい、というのです。


私は泣きそうになりました。『詩吟女子』という本でわかりやすく解説するがあまり、詩吟の本意を失いそうでも確かにあったからです。本当の意味、本当の詩吟の凄さは確かにここにあります。それを忘れずにやっていこう、と決意をもった彼に感服です。


もちろん、『詩吟女子』を読んで、詩の意味を知ることの面白さ、それが入口で始めようという人たちのために書いています。それにしても、今まで受け継いできた型、それはいろいろな方法でありますが、大切な意を忘れずに、敬意を払ってその初心を忘れずに伝えていきたい所存です。


でも、なんだか嬉しいのは、かつて私も、詩吟の詩の意味をこれっぽちもわかっていなかった、ということなんです。


今日の稽古で改めて驚愕したのが(笑った)のが、私が長らく使っていた教本にやたらと落書きがあって、変なイラストとか、「期末(テスト)がんばるー?」(高校の同級生との会話)とか、好きな人の話し、とか、落書きがすごくて、全く詩に入っていないんですね。


今は、『詩吟女子』を書いたせいもあって、詩吟で吟ずる詩については大筋わかったつもりですが、それまで25年以上やってきた詩吟生活で、詩の内容から拒絶の20年間なんだったんだ!って感じです。


私は、全くすっとばした記憶なんですけども、もしやこれが、”読書百遍 意自ずから通ず”だったのか、というと今でいう「マジありえない」ぐらいなんです。それでも、そうなんですね。いや、きっとそこなんですね、本質は。


私は正直、とても意味もわからないような詩を、とにかく吟じてみろ、というようなことは、次世代にはやらせたくないです。しかし、そのような方法で得られる大切なことがいくつもあります。そして、受け継いでくれている人がいます。だから素直に泣けました。


やっててよかったなー


と、いう。


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