詩吟上達のためのたった一つの方法



こんにちは。ナチュラル詩吟教室・講師、乙津理風です。


今日もたくさんの生徒さんとマンツーマンのレッスンをしてとても有意義だったので、その様子をこのブログで少しずつお話ししたいと思います。


まずはじめに、詩吟を始めてもうすぐ1年になる生徒さん(20代女性)。はじめた頃は本当に蚊の鳴くような声をしぼり出すので精一杯だったのに、今日の稽古では芯のある声が出て本人もびっくりした様子。


「人前で吟ずると6倍上達する」からと言ってずっと発表会に誘ってはいたのですが、「もう少し上達してから」とにごされてきました。しかし、稽古を重ねる度に確信を得てきたのか、今度の発表の場でやっちゃおっか!?と言ったら意を決したようです。


とは言え、私からすれば彼女は本当に才能のある(これはみんながもっているものなのですが)、しかしその出し方がわからないだけであって、それを導くきっかけが詩吟とでも言いましょうか……。


ちょっとした本人の勇気と、あとは教える側の「いいものはいい」という確信だということが改めてわかりました。


多少の不安を見せつつも意を決して発表すると決めた彼女の生き生きとした表情が、何だか見ているこちらも元気になっちゃうのでありました。


そんなわけで、声の小さい人も、声を出すのが苦手な人も一年地道に頑張れば、出るようになるし、人前でやる勇気も出るということがわかりました。もちろん人によりますが、一年は頑張るということが、何よりも大事なのかもしれません。


***


次は、詩吟を始めて3年目になる生徒さん。 人前で話すことがお仕事で、それをさらに拡張すべくかなりレベルの高い朗読の教室にも通われているそう。


詩吟では初段をとられてから、詩吟を武器にしたいという思いがじわじわ高まっている様子。


しかし、彼女曰く、人前で話す仕事は緊張しないのに、詩吟のたった一分半がとんでもなく緊張するとのこと。そのおかげで、さらにお仕事が楽に感じられるようになったのはいいことですが、なぜそんなにも詩吟が緊張してしまうのでしょうか。


よくよく話しを聞いてみると、朗読や演劇、はたまた詩吟の場で、いかにも自分酔いしているものがどうにも受けつけられないとのことでした。理由はともかくてして、確かにそういうことってありますよね。


それで、彼女が朗読や詩吟の稽古を一生懸命しつつも、もしや自分酔いしている口調になっているのではないか、という不安がどうしても沸き起こってしまうと言います。


もうその時点でとっても謙虚だし、聞く耳も肥えていると思うのですが、その不安が故に自信が持てない。


では、どうしたらいいか。


ここに詩吟と古典芸能の真髄があります。


その答えは、型稽古に徹底せよ、ということです。


どういうことかと言うと、とにかく師匠のモノを徹底的に真似することです。


言葉の口調、細かく分けると、スピード(長さ速さ遅さ)、強弱、高低、間の長さ、それら全てを徹底的に真似する。


例えば、歌舞伎などは代々誰か分からなくなるほど徹底的に生き写しのように受け継いでいく。詩吟はそこまでやらなくてもOK。声色まで真似しなくていいのですが、それ以外の音的な部分、つまり、リズム(強弱、緩急)を真似っこする。それだけでもだいぶ上達します。


なぜなら、少なくとも師匠はあなたよりできる人なわけです。それをそっくりそのまま真似すればできる人に近づくというもの。わざわざ未熟な自分で編み出した何かを投じるまでもない。真似に没頭すれば、自分酔いなど入れる隙間もないからです。


これが、長年受け継がれ、なくなることのない、貴重な伝統芸の技の基本となるものです。さらにいろいろなことに応用できる。「まねる」の語源は「まねぶ」つまり、「まなぶ」こと。真似することが究極の「学ぶ」ことだということを昔からやってきたわけです。


「パクリ」とは違います。基礎をつくることです。それができて初めてみえてくる。しかもそこからがびっくりするくらい楽しい世界が待っている。


逆に教える方は徹底的に真似させる必要がある。手本をみせる必要がある。
どこが手本とずれているか、気付かせる必要がある。


それには本当に短いフレーズでも全身全霊を集中させて聞くこと。そういう風にしむけること。そういう稽古は、歌が上手いとか声がいいとかは別として、やればできる。


真似っこは結構簡単です。なぜなら意識しないレベルのものだから。


それをあえてやってみる。そうするとそんな些細なことが強化される。


詩吟の上達にはそんな些細なことに気付くというプロセスがある。


このプロセスは或らゆるもののノビしろを兼ね備えているかもしれない。


それが今日の稽古で特に実感したことでした。


***


最後に。実は先に書いた徹底的に真似をするという稽古を始めて些細なことに気付いたのは、他でもないこの私でした。長年思い悩んでいた謎が解けて頭がぱかっと開いたような気分でした。後から考えると当たり前のことのようなのではありますが、ここに記します。


ナチュラル詩吟教室を始めて4年目になる生徒さん。


詩の意味には敢て近づかず、吟じているうちに気付いていくという「読書百遍意自ずから通ず」(読書は百回読めば自然とその意味がわかる)という、江戸末期から明治時代の素読のやり方(寺子屋が学問所で行われた漢文を声に出して読む勉強方法でこれに節をつけたのが詩吟のはじまり)を体現したいと続けている生徒さんがいます。


私としては、そのやり方は古く、やっぱり詩の意味に対する理解がないといい吟はできないとずっと感じていました。というか、”読書百遍意”はあまりに難しく、時間がかかることではないかと思い込んでいたのです。


しかし、難しい漢詩の現代語解釈を読んだところでわからないものはわからない。それを自分勝手に理解したつもりになって表現しようということ自体が傲慢だったのかもしれない。


漢詩、和歌はもちろんのこと、俳句であれば世界一短い定型韻文詩です。五七五のたった17文字の中に様々なことが詰め込まれている、いわば、抽象化された芸術です。その詩の意味をつかめというのは、ピカソのへんてこな絵の意味を答えよ、と言われているようなものではないか。


というのは言い過ぎですが、無謀なのです。いきなり他人の作った詩の意味を歌で表現せよ、というのは。


では、どうすればいいか。


それで、逆説的に考えてみました。


長年型稽古を続けてきた私は、「海」という言葉は海っぽく、「人生」という言葉は人生っぽく、少なくとも詩吟においては言える技が身についています。しかもそれは、詩吟で吟ずる短い定型詩の上で前後の文脈を考えながら 、その詩にふさわしい「海」も「人生」もそれぞれ様々なバリエーションで言い分けることができる。


これは単に自慢したいわけではなく、長年やり続けて染みついた習慣のようなもので、例えばこの料理にはこれくらいお醤油を足したらいいとか、そういうのがぱっとできる毎日料理している主婦の知恵のようなものだと思います。


しかも自己満足に終わらず、聞く人もまさに 「海」や「人生」をリアルに感じられるような言葉になっている。料理で言えばちゃんと美味しいものになっている。


ということはどういうことかと言うと、先も述べたように、とにかく「海」と言うときの口調、スピード(長さ速さ遅さ)、強弱、高低、間の長さを徹底的に真似すれば同じ結果になる。つまり、海らしい海が言えるようになる。海を頑張って想像したり、海らしい海を言おうと自分で創造したりする必要なしにです。


料理で言うなら、このタイミングでこれだけの塩を少しずつ振りかける、とかそういった現実的な行動を型通りやりさえすれば、美味しい料理ができるということです。


つまりは、その細かな型(やり方)を真似すれば、「海」の意味が立ち上がってくる。歌いながらにして初めて海を感じ、思い描くことができるというわけです。


海を見たことがない人でも海を感じることができる。


と言うと極端ですが、小説でも映画でも読んだり観たりすることでとても体験できないようなことを疑似体験できるわけです。


それと同じようなことがこの言葉の言い方一つで体験できる。詩も同じで何百年何千年前の人が体験したこと、思ったこと、情熱だったり、生き死にをみた瞬間だったりですが、詩を詠うことで疑似体験できるとまでは言いませんが、知ることができる。


そういうプロセスを経て、詩の意味に近づけるんだということがわかったのです。


***


ここで、ある違う生徒さんなのお話しです。彼のおじいさんがたくさんの漢詩や和歌を残されていて、それを吟じたいということで私が節をつけて吟じる、という稽古を最近やっています。


戦中、戦後を生きてきたおじいさんの詩はぱっと見の字面ではとても理解できるものではありません。素読してみてもやっぱりわからない。しかし、節をつけて吟じてみると、ややや、わかる、わかるぞー!となってくる。


とても難しい漢詩が、吟じてみると何だかわかるのです。とてもふしぎな体験でとても感覚的なのですが、これがもしや江戸時代に漢文という外国のものを理解しようとして詩吟に発展したプロセスの由縁なのではないか、と思うようになりました。


歌うことで音楽にする、音楽に相当の(魂を救済するような)力があるのは感覚的にわかるのですが、それがとにかく真似っこするという型稽古によって、その詩の意味まで理解できるに至るということを改めて確信しました。


そう言えば、江戸の儒学者・荻生徂徠は、漢文の訓読読みではその理解には浅く、中国語の音のまま学ぶべきだと主張し、外来主義だとお国から批判されて彼の多大な貢献は(ここで説明は省きますが、儒学の教えをわかりやすくしたこと)公には認められなかったといいます。


そもそも言葉の音声は音から成り立っているのであって、音があって言葉になってその意味となるのですから、当然と言えば当然ですね。


ただ、このことがしっかりとわかった上で、これからまた型稽古に励むことは、上達のためにとても有効だと思います。


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