失うものは何もない

母(師匠)と箱根のススキ草原に行ってきました。

こんにちは。ナチュラル詩吟教室講師・乙津理風です。


2月末には生徒さんたちの昇段試験があって、みんなそれに向けてがんばっています。


また、春のイベントとして楽しみなのが、私の所属する流派のさらにその認可団体・岳智会の「新人吟詠発表会」なるものが、毎年4月に府中の市民ホールで開催されます。


初伝以下(比較的始めて日が浅い)の人だけが参加できて、しかもコンクール形式となっていて、毎年出吟者は40名程。その中から、審査員の合計点の高い順から、精進賞2名、努力賞2名が選ばれるというもの。


詩吟というあいまいな芸術に点をつけるなど、全く道理に反しているようにも感じますが、市民ホール規模の客席100名以上の舞台で一人で吟ずることができる、という意味では、結果の善し悪しに関わらず、たいへん経験になります。


そして、「人前で吟ずると6倍上達する」という魔法の言葉があるのですが、このような正式な舞台に立てば、それ以上は見込まれること間違いなしです。


なにせ、主役は、始めて間もないあなた。そして観客は、長らく詩吟をやっている先輩方なのですから、あたたかーい目で見守ってくれます。詩吟に対する免疫が全くないご家族、ご友人の前で吟ずるより、ある意味、気楽かもしれません。


というわけで、ナチュラル詩吟の生徒さんには、毎年たくさんの方にご参加いただいています。


出来の善し悪しに関わらず、出ると決めたその日から、当日出番が終わるまでの、今までと違う非日常が訪れるかもしれないし、それまでの過程がきっと上達につながるのでしょう。


とかく、繰り返しになりますが、コンクールの結果が全てではない、ということです。


「あなたが人前で、声を出して、吟じたことが、全てです。」


それでも、せっかく出るからには、入賞めざしたいとか、詩吟ではどういう評価がくだされるのか、といったことを垣間みたい方のために、少しだけお話をしたいと思います。


***


2012年のことでした。



この年の新人発表会には、ナチュラル詩吟教室からは、9名が出吟、内7名は初出場。内6名は初舞台。たまたま詩吟を聞いたのがきっかけで始められ、半年も満たない方、長くても2年半。20代1名。30代2名、40代2名、50代2名、60代2名。男女も半々ずつくらいでした。


ナチュラル詩吟教室からの出吟者は、他の支部(競合)に比べ、若い世代が多かったので、、もしかしたらナチュラル詩吟教室メンバーが賞を総なめしちゃうのではないか(なぜなら、力強く素直な吟がうちの会では評価される)、という淡い期待を抱いたり抱かなかったりもしたのですが、それでも結果、1名が精進賞を受賞されました。


彼の吟は満場一致で一番良かったようでした。受賞発表前にもあの人の吟よかったね、と何人かに声をかけられましたし、ナチュラルメンバーからも以前聴いた時より大変良かったという声があがりました。


彼の吟の何が良かったのか。


誠実さ、それと何とも言えぬ皆が共感できる良さにあったと思います。


彼は、詩吟の発表会を流派を超えて観に行っていました。そして良い詩吟とは何なのかを研究されていました。


良い詩吟はありましたか。と聞くと、全国から選抜された吟歴の長い猛者の集まる発表会でも、「いませんでした」と、素直に答えてくれました。良い詩吟とはどういう詩吟だと思いますか?、と尋ねると、うーんと考え込み、「心に残るようなものだと思います」、と言いました。


結果、彼の吟が聞く人の心に残ったわけですが、いろいろな発表会を観にいかなくてはいけない、ということが言いたいわけではありません。


良くなくとも他の人の詩吟を聞く機会はあった方がいい。人の詩吟を聞いて、こういう詩吟はいかがなものか、とか、もっとこうしたらいいのに、というような気持ちが沸くだけでも向上につながるのではないか、というのが考察ではありますけれども、もっと大切なことはいくらでもあるような気がいたします。


そもそも詩吟とは、自らを乗り越える力をつけること。だとすれば、今回の発表会に関しては、声を出すこと、舞台に立つこと、この非日常に挑戦することそれ自体が、向上につながるので、参加することに意義がありますから、それだけで、とても意味のあることだと思います。


それでも、思うような詩吟を吟じることができなかったのでもっと頑張りたい、とか、詩吟らしい詩吟が吟じたい、という目標が、今回発表会に参加された生徒さんからあがりました。


詩吟らしい詩吟を吟ずること。



そもそも詩吟らしい詩吟とは何なのか。



それについてじっくり考えていきたいと思います。


***


つまるところ、詩吟は手段ではなく、詩吟に没入すること。


「そうすれば自ずと個性が出ますでしょうか。」とある生徒さんに尋ねられたことがあります。なかなか難しい質問です。しかし、個性を出すことが良い吟につながるわけではない、と答えました。


長い歴史と多くの人々によって淘汰された良い詩吟という共通意識に行き着くから、理屈抜きで、みんながあの人の詩吟は良かったねえとなるわけです。古きを信じて型を修得する。「稽古」の語源は「古(いにしえ)を考える」。「稽」は「考える」という意味です。


現在に生きる素晴らしい一個人としてのあなたが吟ずるのですから、それは過去に存在しなかった、今までにはない作品に自ずとなることでしょう。


また、身体芸術であって、身体(個人)を意識しないこと。大きな声と身体の力みとは全く比例しないこと。なぜなら、響く声を出すための丹田呼吸で使われる深層筋は意識でコントロールできないからです。



じゃあどうすればいいか。



言葉に意識を向けること。言葉のもつ世界を想像すること。その世界を大きく広げること。自分なりに解釈して感情を集約させること。



詩吟らしさとは、言葉のもつ想像力を、現在の自分が、飲み込むことなのかもしれません。



とは言え、発声がままならないうちに感情的になると、嘘っぽい詩吟になるので、注意が必要。物悲しい詩だから悲しそうに吟じてやろうというのは、別に悲しくもないのに、悲しそうな表情をしてればいいんでしょ、といったものと同義で、嫌悪感さえ生まれかねません。


『吟道奥義抄』(日本詩吟学院)の「一 吟詠の修得」の第一には、「作詩者や詩中の人物となり(中略)味わうこと」とありますが、それはさすがに何百年も前の生活も環境も何もかも違う、例えば李白さんの気持ちになってというのは想像を絶します。


しかしながら、詩吟が音楽以前に、漢字というイメージ言語と、やまとことばの音声言語であることから、この日本語特有の言語芸術の特性を活かすためにも、 「山月」がでてきたら、山や月をイメージする、「しらゆき」、がでてきたら白い雪のイメージやその言葉の音のやわらかさを想像する。


ここからはちょっと難しいかもしれませんが、「白雪」から連想する個人的な思い出や妄想を始めて別次元へ持っていってしまう。


<私の妄想>ふわふわな雪が降ってきて傘もささず歩いて いてコンクリートだから落ちた雪はすぐ消えてなくなる。ふと見上げるとうわーっと大きな塵のようなものが斜めに世界をおおっている。田舎の庭に積もったふ かふかの雪。足跡ひとつない。雪だるまをつくったり、みかんを食べたり…。


ここまでいくと、現今の意識も身体も時間軸もゼロになり、無意識によってしか引き出せない丹田呼吸が自然とおこり、とても自然でナチュラルな詩吟ができるのです。


声を出しながら、そんな独りよがりになれないよ〜と思うかも知れません。


普段こういった妄想や感情を表に出すことは控えていると思います(変な人に思われたら色々困るので)。


でもね、そういったモヤモヤを、詩吟を使ってここで一気に解き放つことができます。ガチガチに固まった意識が解き放たれる。 ゆえに、スッキリする。ゆえに、健康に良いにつながるのではないでしょうか。


詩吟がストレス解消になるとか、健康にいいだとか、とおりいっぺんのうたい文句におさまらない、何かがスーッと抜けたような、また、身体も心もあったまったような感覚が得られるのかもしれません。実際、腹筋を使うと身体全体があたたまります。


しかも凄いのが、これが逆説的に働くということです。


***


何年か前に、私が琵琶ギター詩吟ライブをしたときに、まだ始めたばっかりで、当の自分はうだつのあがらない、いろいろ仕事だの恋だの悩みだしたらキリがない状態だったのですが、観に来てくれた友人から、「悩みなんてひとつもない人にみえたよ!」と言われ、とても晴れ晴れとした気持ちになりました。


そして、それまで詩吟は何かのためにやらなければならないこと(もちろん今でも使命感をもってやっていますが)、縛られていたものが一切抜けて、吟ずれば吟ずる程、楽しくスッキリするようになりました。


ここだけの話、それまで10年来ストレス解消の手段としていた、カラオケで尾崎豊を熱唱することへの興味もすっかりなくなっていました。


***


話は、2012年の新人発表会に戻ります。



新人発表会を終えて、打ち上げ。精進賞を受賞した生徒さんのおめでとう会、みなさんお疲れさまでした会を伊勢丹9階の日本料理屋さんで行いました。16時からビールで乾杯。他の支部の方から、私たちは異質(比較的若いから)と写ったようで、いろいろ聞かれたのでカラオケボックスでマンツーマンの指導を受けていると説明したら驚かれていました、というお話し。ベテランだから良い吟かと言えばそうでもない人もいるんですね、という感想。


後日父にも(父も師範クラスで会に参加していたのですが)、よくあんなに大勢参加してくれたね。と言われました。父は戦中生まれで、詩吟の衰退は、戦後軍国主義として敗訴されたからだ、とか、もっと教育に取り入れるべきだとか、よく言っていました。


そのせいばかりではないのですが、何となく私も詩吟の歴史を調べるのに妙な嫌悪感が沸き立って仕方がないのは事実にありました。


そういうこともあって、今回の打ち上げの席で酔った勢いで、本来の詩吟の素晴らしさは戦後、その他の身体技法と共にGHQによりいったん断絶されていて、そのこと自体知らないから詩吟がアングラなのだ、なんて事実無根な話しをしてみたものの、ナチュラル詩吟の生徒さんたちにはなんのこっちゃという表情をされていました。


後になって読んだのですが、内田樹氏の著書『武道的思考』(筑摩選書)に、自分の意見は何の影響力にもならないし、他人の批判をしたところで技術は向上しないという内田氏の合気道の師匠・多田先生が言っていたそうな。しかり。


コンクールは詩吟の本質を問うものではないし、今後もっと自由な形式の発表会がやりたい、と力説したつもりが、「私たちは普段味わえないこのような機会を、先生が思っているより楽しんでますよ。」なんて生徒さんに言ってもらったりして恐縮しました。


むしろ、発表会に参加した生徒さんたちが、目をキラキラさせて、「楽しいです!」とか、「詩吟って人がでますね」、などの感想をもらって、詩吟の捉え方は本当に人によって様々なんだなとつくづく思います。


***


実は、昨年の2014年もナチュラル詩吟教室の生徒さんが精進賞を受賞しました。堂々たる吟じっぷりだったのですが、当の彼女にその秘訣を聞いてみたところ、


「失うものは何もない!」


ということでした。


どういうことかというと、詩吟は仕事でも何でもないのだから、間違ったって何したって、誰にも迷惑かけるわけじゃない、というわけです。


それは、わからなくもないのですが、よくよく聞いてみると、彼女は数年前に和太鼓を始めたそうなんです。しかもとっても楽しかったとのこと。でもね、発表会が近づくとプレッシャーでどうにもこうにもなっちゃうそうなんです。


和太鼓の発表会の場合は、もし間違えたら連帯責任になっちゃう。これが、彼女にとってはつらかったそう。そう言われてみると、確かに、詩吟は基本一人だから、もし間違えても人に迷惑はかからないですね……。


あと、合吟という複数人で一緒に吟ずるのもあるけど、ちょっと間違えたぐらいじゃ目立たないし、ぴったり揃ってないくらいが粋だったりもします。


そういう意味でも、詩吟が、思いっきりぶっつけられる、失うものは何もない、というものでもあるということかもしれません。


そして、そういう気持ちで挑めば、変に緊張せずに、堂々といつも通り吟ずることができるのかもしれません。


***


お教室の空き時間に、渋谷センター街のブックファーストで立ち読みした映画監督のデイヴィット・リンチの『大きな魚をつかまえよう』という本に、観客の感じ方はそれぞれだし、観る環境にもよるわけだから、感動させようとか、そういったことは無意味、というようなことが、ぱっと目に入りました。


今度の発表会で、また新たな発見を楽しみにしています。


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