詩吟を始めて身につく価値として、大きな声が出るようになる、人前に立つ度胸がつく、などがありますが、それ以上に詩吟をやっててよかったなあと思う最大の利点があります。
なんだと思いますか?
私ごとき若輩者が何を言うか、と自分自身につっこみたくなるのはもちろんのこと、まだまだ未熟者で日々精進の毎日ですが、やっとその大切さに気付けてきたかなという感じです。
それは、、、、、
礼儀作法と所作です。
詩吟は一礼に始まり、一礼に終わります。礼ができなければ詩吟は始まりません。
この礼がきちんとできると不思議と謙虚な気持ちで詩吟に取り組めます。
詩吟が「吟道」ともいい、いわゆる茶道や武道などの道の世界であることを前提に考えると、例えば歌が上手くなりたいのなら、カラオケなりボイトレなりを自由に頑張ればいい。
道の世界で必須なのは礼儀作法や美しい所作、そこに含まれるのは人や物への敬う心、どう見られているか自分自身を客観的に見つめる力、思いやりです。
そういった生きる上で必要なものを身につける為の稽古事としての茶道なり武道なり吟道なりであるということを常に念頭においておけば、思うようにできない時期があってもこの積み重ねこそが身になっているのだという自信が持てます。
とまあ、お説教じみたことを言ってはみたものの、「いい大人だし早く詩吟が上手くなりたいから詩吟だけ教えてくれ」 と言われてもそうもいかないのが現実です。
なぜなら、礼儀作法ができてる人、わかりやすく言うと姿勢が良くてお辞儀がきれいにできる人は詩吟が上手いし、そうでない人で詩吟が上手い人はあり得ないからです。
しかも、詩吟のコンクールでは所作に乱れがあれば減点の対象となります。流派によっては着物の着方がちょっと間違えてただけでも減点になります。
かく言う私もつい数年前(10代の頃)までは、「詩吟がうまけりゃいいじゃん」「詩吟と関係ない部分で減点されるなんて信じられない」と憤慨していました。ひどい時は自分が入賞しなかったので抗議にいったりしていました。 どれだけ傲慢なのでしょうか。入賞できなくて当然です。
そんな傲慢勘違い人間にもチャンスは訪れます。
それは辛い試練でした。
私は一時期、毎日練習していても一向に伸び悩む時期がありました。息は全然続かないし、高い声は苦しくて出ないし、何度やっても全然だめ。だから練習していても、大会に出ても何一つ面白くない。大会の前の日は怖くて怖くて現実逃避のためお酒を飲んでしまう…… 。
このままでは詩吟が嫌いになってしまう……。
大会以外だったらうまくいくのかというともちろんそんなことはない。詩吟以外の場での音楽活動も行っていたのですが、しかしここでも唖然。音程は全然とれないし、リズムもとれない、人前で音楽活動ができるくらいのレベルだと思い込んでいた自分が音楽家たちとセッションすらろくにできない。
詩吟のコンクールでちょこちょこ賞をとったくらいでいい気になっていたのでした。
しかも、とどめはある尊敬する音楽家の人に言われた一言。
「詩の意味わかって歌ってるの????」
「詩の意味????はて????なんのこと????」
今でも思い出してぞっとするくらい、詩の意味なんて1ミリも考えないで吟じていました。
私にとってそれが普通でした。古語がかっこいいからいいでしょ、と思っていた。
幼い頃はわからなくて当然だとしても、大人はそうはいきません。
そんな心のない歌を聞いて誰がいいと思えるのでしょうか。
これをきっかけに「なぜ詩吟を吟ずるのか」と自問自答するようになりました。
コンクールで入賞するため?
(それに何の意味があるの? )
詩吟を広めるため?
(私ごときが言える立場か?)
それからコンクールに出るのをやめ、仲の良い大切な友人のために詩吟を吟ずることに徹しました。送別会、結婚式、お正月、お花見……などなど。詩吟にはその時々にふさわしい美しい詩があります。その詩の内容を簡単に説明してから聞いてくれる人へのプレゼントとして心を込めて吟じました。
するとどうでしょう。
涙を流して喜んでくれたのです。
たまたま居合わせた知らない人までが、感動したと声をかけてくれます。
私はこのとき初めて心から「詩吟をやっていてよかった」 と思えました。
「生きててよかった」とすら思えました。
もっともっと上手くなって感動をわかち合いたいから毎日学べるように教室を開いてしまおう。そして、この歓びを多くの人に伝えたいと思いました。
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先日大変嬉しい報告のメールが届きました。今年4月に入会したばかりの20代の生徒さんからです。友人の誕生日プレゼントに、サプライズで、二人の好きな三国志に関する詩を吟じたいということで、稽古を重ねてきました。
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いつもお世話になっています。
○○です。
次のお稽古の時にお話させて頂こうかと思っていたのですが、
本日プレゼントすると話していました、
友人はやはり三国志が好きな子だったこともあり、
(中略)
先生に教えて頂いたことを、全てはできませんでしたが、
そんな中、とても嬉しかったことが、
感動してくれたら大成功、くらいに考えていたため、
特に友人は滅多に泣く子ではなく、
落ち着いたあとに、少し話を聞いてみたところ、
プレゼントのつもりが、私の方が励まされたようで、
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私はこのメールを読んでるそばから涙がこみ上げてきました。
今になって改めて思うのですが、詩吟は人がでます。
それが詩吟の最高に面白いところでもあります。
誠実に取り組めば、いわゆる歌が上手だとか美声でなくても感動を与える吟になる。
結局詩吟は言葉を届けるものだからコミュニケーションなのです。
誠実さがあればコミュニケーションが成り立つとするなら、敬虔な気持ちと吟ずるときの態度、つまり礼儀作法にも気が配れなければ始まりません。
俗に言う、本当に上手い人は出てきたときから空気が変わるようなものをもっている。
それは圧倒的に姿勢が良かったり、所作が美しかったり、体の軸がぶれないかったり、もちろん場数もあるでしょう。
逆に聞いてもらおうという態度がない人の詩吟を、誰が聞くというのでしょうか。
所作が美しいところから、初めて聞いてもらう、聞く準備ができるというもの。
そもそも、姿勢が良くないといい声はでない。
目線が定まってないと声は飛んでくれない。
ちくわのように身体をやわらかくしておかないと声はでない。
そして、礼儀作法。
詩の意味を想像することは、詩や作者に対して思いを巡らすこと。それは他人がどう感じるか考えることにもつながります。つまり、思いやりを持つこと。心のこもっていない詩吟は感動を与えません。
どう思われるか考えること。それが礼であり、円滑な人間関係を保つための秩序であって、儒教的考えでもありますが、そもそも詩吟がそうであるから、結局ふりだしに戻るだけのことなのです。
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今年10月にアメリカへ行き詩吟ワークショップを行ってきました。日本文化を学ぶ大学生たちに、詩吟を歌うコツは「1に姿勢、2に目線、3にちくわになったつもりでやる」と言ってみんなで身体を動かしたりしました。
余談ですが、オリジナルちくわマン(人間)のグッズを作っておみやげに配ったら、「So, cute!!!!!(めっちゃ可愛い!!!!!)」と大人気でした。
さておき、この3つのコツを行うことで自然と礼儀作法の準備が調うというのが特徴で、これは日本人だけにできる特権というわけではなく、世界中の誰でもできて心と身体にとっていいことだからこそ、伝統文化として世界に誇れるのだと思います。
詩吟ワークショップ終了後、参加してくれていた日本人の日本語教師の方と食事をしました。 彼女曰く、「最近の学生はレポート提出が遅れても、遅れましたとしか言わず、ごめんなさいが言えない!」と怒っていて、「学生こそ詩吟をやるべきだ!」と言っていたのが印象的でした。
これはアメリカの学生に限ったことではなく、かつて礼儀作法を身につける為の稽古事として詩吟を行っていたということが、最も大切な詩吟の価値の一つであるということ。詩吟を伝えていく際に欠かせない身体技法であるということを再認識したのでした。
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