ラベル 詩吟コラム の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 詩吟コラム の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

「月が綺麗ですね」- 夏目漱石からはじまる一句


夏目漱石と言えばどうしてもこの逸話が浮かびます。彼が英語の先生をしているとき、「I love you」をこう訳しました。

「I love you」=「月が綺麗ですね」

なんとロマンチック!と今なら思いますが、明治時代には「愛する」という表現がなかったからです。二葉亭四迷も非常に苦労をしたそうで、

「I love you」=「(あなたの為なら)死んでもいい」

と訳したそうです。

  • そもそも愛ってなんぞや!?

外国人の友達に「I like you」と言われ、love以下かぁ〜とがっかりしたことがあるのですが、そもそも愛って何なのか。言葉で表現できるのでしょうか。認識のズレがあるとするならば、英語圏の人が「I love you」と言ってくれたところで、日本人なら「?」と思ってしまうのではないでしょうか。


アメリカに長く住んでいた友人に思い切って聞いてみました。好きな気持ちを伝えるには「I love you」で合ってるの? それはそれでそのままだけど、本当につきあいたいだとか告白するのであれば「To be with you」だね!「一緒にいたい」かー。そんなこと恥ずかしくてなかなか言えませんよね。


漱石先生の逸話には、「月が綺麗ですね、程度に言っておけば、まともな女性になら、伝わるはずだ」なんてくだりがあります。

  • 月をつかったロマンチックな俳句


与謝蕪村の有名な俳句にこのようなものがあります。



菜の花や 月は東に 日は西に

(与謝蕪村)

一読して壮大な景色が目に浮かびます。実はこの俳句にも元ネタがあり、江戸時代の俗謡集に、

月は東に、すばるは西に、いとし殿御はまん中に(丹後の国)

つまりは、「菜の花や」の一句はこうともとれます。

菜の花や 月は東に 日は西に (愛しき人は真ん中に!)

菜の花畑を真っ直ぐ、好きな人へ向かって歩いて行く様子が目に浮かびます。「菜の花や」が愛を伝える一句だとすれば、好きな人に菜の花をプレゼントするってのはどうでしょうか。

  • 龍馬も古典を引用した


似たようなもので、かつて坂本龍馬が愛する人との別れ際に方袖を破って渡しました。しかしそこにも裏意味が!

歌舞伎や人形浄瑠璃にもなった『御所桜堀川夜討』にもある有名なくだり、弁慶が生涯に一度だけ女性を愛したといわれる恋人おわさと一夜をともにしたとき、着ていた着物の袖を、おわさに形見としてわたし、夜明けとともに去った、というエピソードを、相手が知っているということをふまえてのことだと察しられています。

袖をもらった相手がどんだけ龍馬を愛慕ったか。


悪い男だー(尊敬をこめて)。

  • 愛の告白に吟ずるとき

「菜の花や」の意味をやんわりと伝えるなりしたうえで、好きな相手に向かって全身全霊をもってこれを吟ずる、という愛の告白に挑戦するのもいいかも……。


一緒にいたい、とか、共にがんばろう、とかジャパニーズ現代ポップソング的なセンチメンタリズムを感じるのも良いですが、短くて美しい日本語を繰り返し刻むことで心の扉も開かれるかもしれません。



能楽師・安田登先生の寺子屋に行ってきた



今日は、能楽師の安田登先生が開催している寺子屋なるものに参加してきました。これは、広尾の東江寺というお寺で月に2~3回(定期的ではない)開かれているもので、投げ銭というか、お賽銭スタイルでいろいろ学べるというもの。


安田先生は面白い本をたくさん出版されていて、最近では、『あわいの力』(ミシマ社)、『肝をゆるめる身体作法』(有楽出版社)、『日本人の身体』(ちくま新書)など、詩吟をやっている自分としてはタイトルだけでも震え上がるようなものばかりなのですが、日本的なものや作法などの分野よりも、特にそれ以外の著名人からも一目置かれていらっしゃいます。


私の著書『詩吟女子』を出版した春秋社からも、芭蕉の本(「身体感覚で芭蕉を読みなおす。ー『おくのほそ道』謎ときの旅」)や、その他もろもろ面白い本を出版されていますが、私が安田先生を知ったきっかけは、春秋社に詩吟本の企画を売り込んだ際に、おそれながら編集者の方に教えてもらって、猛烈に読みはじめ、猛烈に影響を受けています。


そして、その頃から、安田先生の寺子屋のことも聞いていたのですが、ずっと行けていなくて2年以上経て、満を持して行ってきたわけです。


噂によると、座禅をやったり、甲骨文字を読んだりすると聞いていて、正直かなりビビっていました。行く前からやたら緊張していて、逃げ出したくなるようでした。 なれど、詩吟教室の体験レッスンに来てくれる方もこんな感じなのかなあと思いつつ、勉強勉強と自分を奮い立たせ、広尾の秋風に吹かれるようにして会場に飛び込みました。



結果を先に言いますと、帰り道、感動しすぎて吐きそうで、電車を待っているホームで不覚にも嗚咽、放心状態が帰宅まで続き、今これを書きながらやっと正気に戻ってきたという感じです。


***


私が安田先生に憧れすぎているというのも大きいですが、先生の本を読んでも、ゲストでご登壇したPodcastのお話しを聞いても大いに学べるのに、実際にはこんなにもか!というものでした。授業を受けているこちらは、小さな悩みも大きな悩みもどこ吹く風といった感じです。


それで、本題の本日の寺子屋では、ゲストに狂言師の奥津先生と一緒に、能の「自然居士」という演目の一部を聞いたり、実際に参加者みんなで声に出して謡ってみたりしたわけですが、とにかく最初から最後まで面白くて、あっという間の2時間でした。


音楽的なことや、身体的なこと、古典のこと、能面のこと、小学校をまわっての授業のこと、歴史的なこと、根本的な理解、所謂学びの楽しさなど、多角的であって凝縮されている。寺子屋の授業について多くは語り尽せません。何より、安田先生の圧倒的な声とセリフと謡い。そして、兎にも角にも楽しそうにやっていらっしゃるということでした。



あと、どうやっても今まで聞いたことのないくらい凄い声を出されるのです。



安田先生の凄い理由の大きな1つに、氏が、子供の頃からやっていたというわけではない、ということなんです。


聞いた話しによると、能というあまりに眠いエンターテイメントが600年も続いたのが何故か、という疑問で始めたとか。


つまり、超大人でありながら、つまらないと思いながら始めているんです。でも、その世界でどうか知り得ませんが、安田先生は圧倒的に凄い、とシロウトの私でも思います。また、私の尊敬する圧倒的に詩吟の上手な人も、大人の良い年から始めた人ばかりです。


これは、子どもの頃から詩吟をやっていた者としては脅威ですが、実際にそうなのです。だからこそ、私にとって安田先生は怖い。


怖いし、何より、今から詩吟なり、伝統芸能なりを始めようとする人にとってめちゃくちゃ可能性があるということを声を大にして言いたい。



こんなことを言うのも本当に何なのですが、私が通っている女性向けのとてもライトなヨガ教室の中でもすごい先生がいて、うまーい具合に順序立てて誘導してくれるものだから、同じことやっていていつもできないポーズが何故かできてしまいます。


この「アレアレ!?」という奇跡がこの寺子屋でもあって、それにも似た、いつの間にやら出来てしまう、まさか出来ないと思っていたことが出来てしまう、見えないものが見えてしまう、この感動たるや。


そして、まさかそのヨガの先生が子どもの頃からやっていたとは思えません。


もう言葉にならないし、誰にも教えたくない、と思ってしまう程。


しかしながら、全然偉いとかそういうのが一切ない。


古典をやっていると少なからずそういう人にぶち当たるし、かく言う自分も恥ずかしながら奢ってしまいそうになる。


しかし、古典におけるスーパースター、つまり世の中を良い方向に進化させていった人や歴史をみると、今もそうだと思いますが、一般人目線のような気がいたします。


安田先生が、二千年来の偉人、孔子、キリストを経て次なるは、この私です!というのを夢見ていた的なことを本当に笑いながら冗談で言う、あの感じが、私の浅はかな知識ですが、詩吟で言うところの、江戸時代に勉学における改革をもたらした荻生徂徠なぞと多少重なったりして、どうにもこうにも目頭が熱くなってしまうのでありました。


詩吟の愉しみを多くの人に伝えたいという思いが、時として、一般論に流されやすくなりますが、例えばそれが、健康にいいだとか、声が通るようになるだとか、そういったことは、古典を実際に声に出してみるとわかることですが、そんなことよりも断然得るものがある。



それは何か?



ある種の”つながり”のようなものである。



まあそう言ったダイナミズム(そのものが持つ力強さ)はもとより、安田先生の近著で言うところの、「肝をゆるめる身体技法」(私もまだ読んでいなくて恐縮ですが)、このタイトルだけでも全てをついている。私のやりたいことでもあるし、きっといいことである、そんな気がしてなりません。



さて、今日の寺子屋の授業について多くを語れないと言いましたが、これだけは少し言っちゃいます。


それは、安田先生が能の謡いと比較して、「センチメンタルジャーニー」を歌ってくれたことです(松本伊代のではないやつです)。


どの何かは本当に残念ながら聞き損じてしまったのですが、ジャズミュージシャンかオペラの如く、ちょっと待って、能楽師ですよ。信じられないほど、まるで洋楽のミュージシャンそれ自体だったのでした。なんだこれは、と。


***


私は今日たまたま図書館で松岡正剛氏の「情報の歴史」という図鑑風なものを眺めておりました。これが世界史と日本史が混ざった年表で、編集者視点でピックアップされているというもの。


これによると、私も吟ずるのに大好きな和歌のうちにある良寛の時代にはショパンが、また、一般的にも詩吟で吟ずる漢詩が多い江戸儒学最盛期にはシェイクスピアが、幕末好きもキャーキャーな高杉晋作の頃にはルイス・キャロルの不思議の国のアリスが、同時期に起こっていた。


これだけでも何か必要性を帯びた気が致します。


この現象を何かと問えば、シナジェティクスと言う。はー?てなもんで調べてみたら、シナジー幾何学というもので、あのバックミンスター・フラー(建築家でジオデシック・ドームを作った人)が提唱したのものです。


シナジェティックスとは、分野を超えて関連し合いながら、変化、進展をしていき、その学者自体の直接の体験自体が、その要素でもあるため、実践と経験、熟練士からの対話、講義を受けること、というもの。



つまりは、これはまさしく、安田先生の寺子屋である。



なぜなら、能という日本古来の音楽のリズムと、外国の「センチメンタル・ジャーニー」のリズムを、実際に本人が歌って比較して教えてくれる。



だからこそ、安田先生の授業は面白いのである。


***


私はこの経験から一転しました。伝えるということについてよく考えています。



それと同時期に非常に面白いことがありました。私の主催するナチュラル詩吟教室で、月に一度行っている合吟クラスというものです。


そこでは、1つの有名な詩を男女問わずみんなでユニゾン(ハーモニーがなく同じ音、あるいはオクターブで歌う)で吟じます。男女ではオクターブでやらなければいけないため、女性はより高い声、男性はより低い声を出さなければ合わせることができません。


普通これがいかにもマイナス要素になるため誰もやらないのですが、やってみるわけです。


そして、先日のレッスンでは、その参加者の方の中から男女1名ずつペアになって吟じてもらう、という時間を作りました。これが、まあすこぶる感動的で、盛り上がった。気持ち悪いくらいに。


参加してくださった生徒さんに感想を聞いてみると、上手い下手とかの以前に、精一杯出すという感覚が一緒だったのではないか、という意見があり、なるほどー、と腑に落ちる感じでした。


それにも増して、違う生徒さんの意見では、合吟という1人で歌う以上のスタイルはあるが、それは、3人以上であって、男女2人はもはや違うものである何かであるということ、ということでした。また、それぞれの良さが引き立っている、とも。


伝統的な形式的なスタイルの流れでは気付きませんが、それがやってみると、味わったことのないような感動がある。


メジャーではありませんが、男女2人の合吟はきっとかつてあったのかもしれませんが、私の父と母がやっているのしか見たことがありません。それも、なんだか身内ながなら恥ずかしいですが、その関係だからできる、みたいな無茶がある。


ということは、その無茶をやってみようではございませんか、というものすごく身を乗り出した気分なのです。とっても楽しそうなことに一歩踏み出したことだと思います。


この経験は、詩吟だけでは語れないような気がしてなりません。どうにかシナジェティクスに語りたい。


上手くいえませんが、それを形にしたい。ただそれだけのこと。


安田先生の授業を受けて、全く先の見えぬ可能性を感じました。


何より、安田先生のような師をもてて(こちらが勝手に思ってる)、幸せです。


生きててよかった〜



▶他の詩吟コラムを読む
▶無料体験レッスンのお申し込みはこちら
▶「詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる」乙津理風著(春秋社) 

詩吟を歌うコツ…姿勢、目線、ちくわともう一つ



詩吟を始めて身につく価値として、大きな声が出るようになる、人前に立つ度胸がつく、などがありますが、それ以上に詩吟をやっててよかったなあと思う最大の利点があります。


なんだと思いますか?



私ごとき若輩者が何を言うか、と自分自身につっこみたくなるのはもちろんのこと、まだまだ未熟者で日々精進の毎日ですが、やっとその大切さに気付けてきたかなという感じです。


それは、、、、、



礼儀作法と所作です。



詩吟は一礼に始まり、一礼に終わります。礼ができなければ詩吟は始まりません。


この礼がきちんとできると不思議と謙虚な気持ちで詩吟に取り組めます。


詩吟が「吟道」ともいい、いわゆる茶道や武道などの道の世界であることを前提に考えると、例えば歌が上手くなりたいのなら、カラオケなりボイトレなりを自由に頑張ればいい。


道の世界で必須なのは礼儀作法や美しい所作、そこに含まれるのは人や物への敬う心、どう見られているか自分自身を客観的に見つめる力、思いやりです。


そういった生きる上で必要なものを身につける為の稽古事としての茶道なり武道なり吟道なりであるということを常に念頭においておけば、思うようにできない時期があってもこの積み重ねこそが身になっているのだという自信が持てます。


とまあ、お説教じみたことを言ってはみたものの、「いい大人だし早く詩吟が上手くなりたいから詩吟だけ教えてくれ」 と言われてもそうもいかないのが現実です。


なぜなら、礼儀作法ができてる人、わかりやすく言うと姿勢が良くてお辞儀がきれいにできる人は詩吟が上手いし、そうでない人で詩吟が上手い人はあり得ないからです。


しかも、詩吟のコンクールでは所作に乱れがあれば減点の対象となります。流派によっては着物の着方がちょっと間違えてただけでも減点になります。


かく言う私もつい数年前(10代の頃)までは、「詩吟がうまけりゃいいじゃん」「詩吟と関係ない部分で減点されるなんて信じられない」と憤慨していました。ひどい時は自分が入賞しなかったので抗議にいったりしていました。 どれだけ傲慢なのでしょうか。入賞できなくて当然です。


そんな傲慢勘違い人間にもチャンスは訪れます。


それは辛い試練でした。


私は一時期、毎日練習していても一向に伸び悩む時期がありました。息は全然続かないし、高い声は苦しくて出ないし、何度やっても全然だめ。だから練習していても、大会に出ても何一つ面白くない。大会の前の日は怖くて怖くて現実逃避のためお酒を飲んでしまう…… 。


このままでは詩吟が嫌いになってしまう……。


大会以外だったらうまくいくのかというともちろんそんなことはない。詩吟以外の場での音楽活動も行っていたのですが、しかしここでも唖然。音程は全然とれないし、リズムもとれない、人前で音楽活動ができるくらいのレベルだと思い込んでいた自分が音楽家たちとセッションすらろくにできない。


詩吟のコンクールでちょこちょこ賞をとったくらいでいい気になっていたのでした。


しかも、とどめはある尊敬する音楽家の人に言われた一言。


「詩の意味わかって歌ってるの????」


「詩の意味????はて????なんのこと????」


今でも思い出してぞっとするくらい、詩の意味なんて1ミリも考えないで吟じていました。
私にとってそれが普通でした。古語がかっこいいからいいでしょ、と思っていた。
幼い頃はわからなくて当然だとしても、大人はそうはいきません。


そんな心のない歌を聞いて誰がいいと思えるのでしょうか。


これをきっかけに「なぜ詩吟を吟ずるのか」と自問自答するようになりました。


コンクールで入賞するため?


(それに何の意味があるの? )


詩吟を広めるため?


(私ごときが言える立場か?)


それからコンクールに出るのをやめ、仲の良い大切な友人のために詩吟を吟ずることに徹しました。送別会、結婚式、お正月、お花見……などなど。詩吟にはその時々にふさわしい美しい詩があります。その詩の内容を簡単に説明してから聞いてくれる人へのプレゼントとして心を込めて吟じました。


するとどうでしょう。


涙を流して喜んでくれたのです。


たまたま居合わせた知らない人までが、感動したと声をかけてくれます。


私はこのとき初めて心から「詩吟をやっていてよかった」 と思えました。


「生きててよかった」とすら思えました。


もっともっと上手くなって感動をわかち合いたいから毎日学べるように教室を開いてしまおう。そして、この歓びを多くの人に伝えたいと思いました。


***


先日大変嬉しい報告のメールが届きました。今年4月に入会したばかりの20代の生徒さんからです。友人の誕生日プレゼントに、サプライズで、二人の好きな三国志に関する詩を吟じたいということで、稽古を重ねてきました。

-----------------

いつもお世話になっています。
○○です。
次のお稽古の時にお話させて頂こうかと思っていたのですが、
早くご報告したいと思い、いてもたってもいられずメールさせて頂きました。

本日プレゼントすると話していました、友人へのサプライズ詩吟ですが、失敗することもなく、吟じることができました。

友人はやはり三国志が好きな子だったこともあり、詩の内容も知っていたため、なお喜んでくれていました。
(中略)

先生に教えて頂いたことを、全てはできませんでしたが、今の自分のベストは聞いてもらうことができました。吟じ終えたあとも清々しく、とても気持ちがよかったです。

そんな中、とても嬉しかったことが、友人が感動して泣いてくれたことです。友人は、私がプレゼントを用意しているどころか、誕生日も覚えているとは思っていなかったようで、そのせいもあってか、本当に喜んでくれていました。

感動してくれたら大成功、くらいに考えていたため、まさか泣いてくれるとは思わず、私が「ありがとう!うれしい!」と吟じ終えたあとに言っていました。

特に友人は滅多に泣く子ではなく、今まで辛いことがあっても私の前で泣いたりしなかったので、とても嬉しかったです。

落ち着いたあとに、少し話を聞いてみたところ、私の気持ちにも感じ入ってくれたからもあるけれど、詩吟の盛り上がりの箇所に感極まって泣けてしまったというようなことを言ってくれました。

プレゼントのつもりが、私の方が励まされたようで、今思い出して少し泣いてしまいそうです。

-----------------

私はこのメールを読んでるそばから涙がこみ上げてきました。


今になって改めて思うのですが、詩吟は人がでます。
それが詩吟の最高に面白いところでもあります。
誠実に取り組めば、いわゆる歌が上手だとか美声でなくても感動を与える吟になる。


結局詩吟は言葉を届けるものだからコミュニケーションなのです。


誠実さがあればコミュニケーションが成り立つとするなら、敬虔な気持ちと吟ずるときの態度、つまり礼儀作法にも気が配れなければ始まりません。


俗に言う、本当に上手い人は出てきたときから空気が変わるようなものをもっている。


それは圧倒的に姿勢が良かったり、所作が美しかったり、体の軸がぶれないかったり、もちろん場数もあるでしょう。


逆に聞いてもらおうという態度がない人の詩吟を、誰が聞くというのでしょうか。


所作が美しいところから、初めて聞いてもらう、聞く準備ができるというもの。


そもそも、姿勢が良くないといい声はでない。


目線が定まってないと声は飛んでくれない。


ちくわのように身体をやわらかくしておかないと声はでない。


そして、礼儀作法。


詩の意味を想像することは、詩や作者に対して思いを巡らすこと。それは他人がどう感じるか考えることにもつながります。つまり、思いやりを持つこと。心のこもっていない詩吟は感動を与えません。


どう思われるか考えること。それが礼であり、円滑な人間関係を保つための秩序であって、儒教的考えでもありますが、そもそも詩吟がそうであるから、結局ふりだしに戻るだけのことなのです。


***


今年10月にアメリカへ行き詩吟ワークショップを行ってきました。日本文化を学ぶ大学生たちに、詩吟を歌うコツは「1に姿勢、2に目線、3にちくわになったつもりでやる」と言ってみんなで身体を動かしたりしました。


余談ですが、オリジナルちくわマン(人間)のグッズを作っておみやげに配ったら、「So, cute!!!!!(めっちゃ可愛い!!!!!)」と大人気でした。


さておき、この3つのコツを行うことで自然と礼儀作法の準備が調うというのが特徴で、これは日本人だけにできる特権というわけではなく、世界中の誰でもできて心と身体にとっていいことだからこそ、伝統文化として世界に誇れるのだと思います。


詩吟ワークショップ終了後、参加してくれていた日本人の日本語教師の方と食事をしました。 彼女曰く、「最近の学生はレポート提出が遅れても、遅れましたとしか言わず、ごめんなさいが言えない!」と怒っていて、「学生こそ詩吟をやるべきだ!」と言っていたのが印象的でした。


これはアメリカの学生に限ったことではなく、かつて礼儀作法を身につける為の稽古事として詩吟を行っていたということが、最も大切な詩吟の価値の一つであるということ。詩吟を伝えていく際に欠かせない身体技法であるということを再認識したのでした。


▶他の詩吟コラムを読む
▶無料体験レッスンのお申し込みはこちら
▶「詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる」乙津理風著(春秋社)    

恋の情熱に燃えたぎる一句 - やは肌の


12月7日は女流歌人として有名な与謝野晶子の生誕の日であります。
彼女の代表作といえばこれ、



やは肌の あつき血汐にふれも見で 
さびしからずや道を説く君

(与謝野晶子)


通釈:道学の先生達よ、女の熱愛に触れることもしない感情の没却は寂しくありませんか


坊さんに恋してしまった彼女は13通ものラブレターを送るも、かったーい返信しかきません。泣けてきます。


彼女の歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立。伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。



のちに既婚者であった与謝野鉄幹にぞっこんとなりあいなくと結ばれ、11人の子供に恵まれます(どんだけ!)。鉄幹は彼女の才能を見出し『みだれ髪』の出版させた敏腕プロデューサーでもあります。しかし晶子が注目される一方で旦那はくすぶっているばかり。そこで晶子は鉄幹にパリ行きを指南。旦那をパリへ送ってからも、いてもたってもいられず子供をどちらかにまかせ、自分もパリへ。のちに鉄幹との共著『巴里より』を出版。「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、女性教育の必要性などを説きました。


もうひとつ有名なのが『君死にたまふことなかれ』。弟が日露戦争の兵隊にとられたときの歌です。本作は長いのでここでは割愛しますが、お国万歳のかつてにこのような反戦歌を発表した彼女は「どんだけ女性」として尊敬をはるかに超越したところにいます。



さて、詩吟で吟ずるにあったって、「やは肌に」のような短歌を吟ずるのは女性がいいのでしょうか。



そうですね。



そうでしょうか。



私自身、かつて国語の授業でこの詩を知ったとき(10代前半)、うわうわうわーと思いました。よく意味が分からないけど、きっととんでもない大人の世界なんだなーと妙にドキドキしたりしながら朗読するわけです(テストにでるので)。



さて時代は今、ひとむかし前から草食系男子なる流行語が飛び交い、世の女子たちをがっかりさせているのか、きゃーきゃー言わせているのか謎です。


男子が女子が、草食か肉食か、といったことは無用にて、人のことなどいくら考えてもわからないわけで、とかくどんな男性も女性も猛烈な詩吟を吟ずることによっては、自らの声の響きで空間も観念もぐらぐらと揺れ、やがてでっかい一本筋が見えてくるのであります。


詩吟の面白いところは、詩の内容が女性的であれ男性的であれ、普遍的に優れている点。内容はもとい、大声で吟じることに新たな発見があるかもしれません。そしてそれが日本文化を知ること、そして自分自身のルーツを知ることへ繋がるのであればたのし。そんな味わい方もあってもいいのではないのでしょうか。


というわけで、思いきって「やは肌に」を吟じてみましょう!



詩吟は歌がうまくなる!

 
先日のお稽古終りに、ある生徒さんが大きく目を見開いて私に言いました。


「先生!詩吟は絶対うたがうまくなります!」


「はぁ……、そうなの?」


「伸び悩んでいた生徒が(カラオケ)コンテストで優勝しはじめたってブログで書いてください!」


というわけでブログを書きます。


彼女は詩吟を始めて一年もたたないのですが、カラオケコンテストにでるのが趣味なほど、もともと歌唱力はありました。ボイトレも月6回も通っていたほど熱心で、それでも伸び悩んで詩吟にいきついたそうです。それが最近続々といい結果がでてきたとのこと。


とは言え、


「それは詩吟のおかげというより、彼女自身ががんばったからではないの?」


私は半信半疑でした。


なぜなら私は、


カラオケがへたっぴーだからです!!


毎日詩吟やってるのに、カラオケは全然だめだからです。


ここだけの話、某カラオケ番組から詩吟枠ということで出演の打診があったのですが、いざ大好きなの尾崎豊を熱唱したところ、あっさり「モノマネですよね」と言われ、なかったことになりました。


友達といくカラオケでは超盛り上がるのにぃ〜


しかも、モノマネではない!歌は情熱だ!情緒だ!そもそも詩吟は心で歌うんです!


と熱弁をふるってポカンとされてしまいます。きっとめんどくさい奴と思われたでしょう。相手は点数がとれるカラオケを求めてるんだから主旨が真逆なんですよね。


勘違い。ああ恥ずかしい。


というわけで、詩吟をして大きな声がでるようになる、とか、度胸がつく、というのはよくわかるのですが、歌がうまくなる、というのは実はあまり自信がありませんでした。(「詩吟女子」ではカラオケが上手くなってモテる、というコラムまで書いてるのに)


ところがどっこい、この結果です。


そういえば最近、特に始めたばかりの生徒さんから、カラオケ行ったら歌がうまくなったと言われた、とか、仕事のつきあいでお店でカラオケを歌ったらうまくなったと言われたとか、ちらほら聞くようになりました。


それでもまだ実感がなかったのですが、先日、5歳の生徒さんが、詩吟の稽古をしている渋谷のカラオケ屋さんのBGMでかかっている男性ポップスの難しそうな曲を聴いて、「あ、これよく聞く」 と言って小さな声で口ずさんでいたのですが、驚異的にうまかったのです。


詩吟はまだまだなのに。


あれ?


先のカラオケコンテストで優勝した生徒さんも詩吟はまだまだです。始めたばかりなので当り前なのですが、カラオケでは優勝した。


あれあれ?


その生徒さんが言うには、友人の演歌歌手が「母音だけで歌う練習をする」 と言っていたそう。詩吟では、基礎として母音をしっかりだす練習を徹底的にやります。


つまり、プロの演歌歌手と同じトレーニングをしている、ということ。


「だから絶対詩吟はうたがうまくなりますよ!!」と生徒さん。


これは予想ですが、石川さゆりレベルのプロ歌手でも基礎練は常にやっているのではないでしょうか。


プロもやっている基礎トレをやって、基盤ができて歌がうまくなる。


なるほど!ここで初めて合点がいきました。


詩吟の基礎は基盤を作るのです。


基盤ができなければその先はない。


しかも詩吟の基礎は、ドレミがわからなくても、言葉の意味がわからなくても、歌に自信がなくても、”誰でもできるレベル”で非論理的に構築されています。(大事なのはこの、”誰でもできるレベル” というポイントです。後で詳しく書きます。)


当り前っちゃあ当り前なのですが、なかなか実感できていませんでした。


でも今回この気づきのおかげで、長年抱えていたある悩みが吹き飛びました。


ちょっと長くなりますが、それについて書きたいと思います。


***


ナチュラル詩吟教室では、ほとんど全くの初心者さんに一から詩吟をお教えすることを中心として稽古をしています。声を出すこと、母音の発声、呼吸法、姿勢、目線、ちくわ……、などなど、これを順を追ってやっていくと、あら不思議。難しいと思っていた詩吟ができちゃうんです。


これを毎回やりながら、一年単位くらいで徐々に課題(身体や思考の可動域)を増やしていき、二〜三年目くらいで自然なゆらし(こぶし)ができるようになったり、力を入れずに大きな声が出せるようになったりします。


もちろん本人のがんばりもありますが、徹底的に基礎力がつく。なにより、詩吟自体がまあまあでも、普段の生活や仕事が変わるようです。


ここまではいいのですが、問題は詩吟経験者です。


昔やっていた、とか、今やっているけど基礎からやりたい、という方とは同じように全くのゼロから稽古していきます。


しかし、困ったことに、他流派で歌い方は全然違う上に、コンクールでいい結果を出したいという方がたまにいらっしゃることがあります。


これにはお手上げで、これまた恥ずかしながら教えられないと言って断ってきました。


なぜなら、詩吟の価値感が違う上、点数を競うコンクールでは、私がよかれと思う詩吟は評価されない確率が高いからです。(カラオケ下手の私が言うんです)


とは言え、このまま逃げてばかりではかっこ悪い。大きな課題として取り組んでみよう!他流派にも関わらずリスクを負ってまで来てくれる人の力になろう!と思いたち、稽古することになりました。


ところが、いざ稽古を始めたのですが、全然息が続かない。昨年のコンクールで入選するほどの方で、そこそこ歌えるはずなのにどうして……。少しも前にすすめません。


やっぱりこういうのは無理なのかも……。


歌がうまくなる実感がなければこの生徒さんにも申し訳ない、と諦めそうになりました。


しかし、ある時はっと思い、目指しているコンクールで入賞している先輩の詩吟を聞かせてもらいました。


するとどうでしょう。


めちゃくちゃ声が高いのです。


これを真似すれば入賞すると信じて、同じキーで練習していたのです。


その生徒さんは、その高さが出るには出るのですが、歌えない。でもこの高さで歌わなければ入賞できないからがんばる!と片意地はっていたのです。そういうルールなら仕方ないかと思っていたのですが、キーをかなり下げてみたらまあ歌えること。


しかも全然低く聞こえないし、高いキーのときより断然上手!


どうしてこんな単純なことに気づかなかったんだろう!


キーが下がったところで、声の聞こえ方はそんなに変わりません。声質によってキーが低いのに高く聞こえたり、反対に結構キーは高いのに低く聞こえるなんて日常茶飯事です。


お手本のキーと同じにして無理して歌うなんて超ナンセンスです。


なぜなら詩吟の最大のいいところの一つに、


自分に合うキーで歌ってよい。


というのがあるからです。


よく自分が音痴だと思っている人がいますが、自分に合うキーで歌っていないから、出せなくてはずしてしまうだけなのです。


普通の人や好きな歌の歌手よりうんと低かったり高くしたりしても、自分に合うキーで歌えば音がとれるようになります。


そう、あなたは音痴ではない。


自分に合ったキーで歌っていないだけだったのです。


(他にも理由がある場合ももちろんありますが)


コンクールで賞をとるような歌うまの素人や、プロの歌手は、特に最近の歌謡曲ではキーが高い人が多いです。それをそのまま真似しても声さえでない。音をはずす。自分は音痴なんだ。と自信をなくす。


そうではなくて、自分に合うキーにうんと変更して、自然に声が出せるようにする。そこから声を出すことになれる。たくさん歌う。そうしているうちに声域が広がって高い声や低い声も出るようになる。


つまり詩吟は、自分に合うキーで歌うことができる=”誰でもできるレベル”から始めることができるというわけです。


詩吟業界にはびこる「音程が高いから上手い」とか、「男性ならこの高さ、女性ならこの高さ」といった平均値に左右されないことです。そういうことを言ってくる先輩をよく見かけますが、「今はできないけどゆくゆくはそうなるのを目標にしよう」くらいに思うのがベストです。


なぜなら、何十年もやってるのに平均値を出せないのは指摘されて当然かもしれませんが、始めたばかりの我々にとっては理屈が合わないことがよくあります。


そういうわけで、私とその生徒さんは先を急ぎすぎたのです。


歌の上手い人の表面だけ真似しても上手くならない。


自分の出せる声の音域で基礎練習をしなければならない。歌の上手い人だって、今でも基礎練習をしているのです。そこから真似するべきなのです。


これに気づいてから、その生徒さんとはゼロから基礎練習をするようになりました。たまに表面的な節回しがでてきてしまうのですが、ナチュラル詩吟教室の稽古では、それは脇においておいて、徹底的に基礎をやります。


彼がこの先、コンクールで入賞するような詩吟に完成させるのは彼の仕事です。そのための基盤づくりがナチュラル詩吟教室であるということ。


「詩吟をしていろいろなことの基盤づくりができるようにしよう」


私は気持ちをあらたにし、とても前向きな気持ちになりました。


***


さてさて、その生徒さん。「最近 ファンが一人できた」と嬉しそうに報告してくれました。


河原で詩吟の練習しているそうなのですが、「もう一度うたって!」と言ってくれるおばちゃんがいるとのこと。


めでたしめでたし。


▶他の詩吟コラムを読む
▶無料体験レッスンのお申し込みはこちら
▶「詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる」乙津理風著(春秋社)     

詩吟が若い女性に人気の秘密




著書『詩吟女子』を出版してから、実際に若い女性(特に20代前半)が多くナチュラル詩吟教室に入会して詩吟を始めています。


実はこの本のタイトル、 出版社がつけてくれたのですが、「〇〇女子」だなんて何てあざといんだ!と最初は憤慨していたものの、本当にこのタイトルにしてよかったなあ、と実感している次第です。


彼女たちに詩吟を始めたきっかけを聞いてみると、和楽器バンドが好き!という方がまあ多いこと。和楽器バンドというのは和楽器、つまり琴、尺八、三味線、和太鼓など師範クラスの若者たちによる和風ビジュアル系ロックバンドで、海外や日本のテレビなんかでも注目を集めています。


また、このバンドのボーカルが詩吟の実力者で超美人(!)。こんなスターがいたら詩吟も流行るのになあ、という甘い幻想を見事に体現してくれていて、本当にありがたいです。


それで、そんな詩吟女子たちの中でも顕著なのが、レキジョ(歴史好き女子)であるということ。と言ってもライトな方だとは思うのですが、まあ歴史設定の漫画やアニメが人気ということもあって、特に、幕末好きが詩吟をやりたいやりたい、と言ってきているわけです。


確かに詩吟は、江戸末期に漢文の朗読から始まったものということもあって、幕末に活躍した英雄が作った漢詩が多くあります。「勝海舟の漢詩もあるよ~」なんて言ってみると、「きゃ~かっこいい~♡」なんてアイドル並みの扱いですから、こちらも楽しくなってきちゃうわけで。。。


でも、まてよ。そもそも詩吟というのはそういう側面もあったんじゃあないかしら。


現今の詩吟の主流は、音楽的な歌、重視傾向にありますが、古き偉人の詩を声に出して味わうという意味では、そういう一見横しまっぽく、伝統を重んじるご年配の男性諸氏が眉をひそめそうなきっかけこそが、本来の詩吟の愉しみ方にかなり近いかもしれない……云々かんぬん。


まあ、難しいことはひとまずおいといて、好きな詩、或は好きな作者の詩を吟ずると何万倍の速度で上達が速くなるし、とにかく楽しくお稽古ができるっていうことだけは絶対!、ともともとデカい声を大にして言っている私が言うんです。


それにしても、好きな詩とそうでない詩の出来がまあ違うこと(私)。芸能として考えたらそんなことはあっていけないはずですが、趣味で、自分のためにやるのであれば、好き勝手やってなんぼのもんじゃーい、という部分もあると思います。


詩吟の偉い先生がよくおっしゃる、「作者の気持ちになって吟じろ云々かんぬん……」が、幼い頃から詩吟をやっていた私にとっては、「そんなことわかるわけな……」と思っていたのが、そんな彼女たちをみて、「そういうことか!」ちょっとわかるかもしれない……。


だって、幕末スターが血気盛んで若くして死んでる、ということは、この詩を作ったのもの20代だしねー。


そんな話しをナチュラル詩吟教室の男性の生徒さんに話したら、実は官軍大嫌い、と言っていたものの、そもそも吉田松陰みたいな人は頭良いけど、命懸けで上に楯突くでしょう、僕は上司にそんなこと言わないもん、と言っていたのが印象的でした。


まあ世の中かっこいいことばかりではまかり通らないわけですが、にしても若い女性たちが、なかば空想の世界を通して詩吟を楽しむ、というきっかけは、なんだかハッピーで、詩の内容自体はかなり政治に結びつくのだけれども、若い女性は政治的要素は一切かみしてない。


ただ、詩が、言葉がかっこいい。それを確かに良くない方に利用されていた歴史がないとは言えないけれども、その圧倒的な力を、良い方に利用できたらなあ、と思う次第です。


***


ところで、私は最近ホットヨガなるものハマっていて、ほぼ毎日気持ち悪いくらい通っています。


なぜなら、ヨガを詩吟の稽古にちょこっと取り入れたり、ヨガのポーズや精神性が詩吟とマッチするというようなことを本で書いたりもしたせいか、生徒さんがこっそりヨガを始めていて、急に上手くなったりしてるもんだからどうしたのですか?!と問うと、実はヨガに週2~3で通っています。なんて言うものですから、こりゃー負けてられん!というわけで、必死になっているわけです。


こういう話しをすると、じゃあヨガをやらないと詩吟が上手くならないのか、というとそういうわけではなく、実際に詩吟の稽古でも取り入れたりしているので、それでも充分かと思いますが、生徒さんが勝手にやっていることです。


私がヨガに通う理由として、まあその前提にヨガが驚くほど、若い女性に流行っているということがあります。


興味がない人はどうでもいいと感じると思いますが、平日の朝からヨガスタジオはぱんぱんのぎゅうぎゅうです。私の地元吉祥寺圏内では、新しいヨガスタジオがばんばん立っていて激戦区状態。吉祥寺だけかもしれませんが、目を見張るものがあります。


そんなにヨガが若い女性たちに流行っているのなら、実際に通ってみればその理由がわかるかもしれない。


それで毎日通ってみてわかっちゃったんです。


ヨガの何がそんなに魅力的なのか。


女性はダイエットを考えると思います。しかし、ほぼ毎日通っている私が言うに、ちょっとは痩せるけど気になっている二の腕とかあんまり変わらない……。


けど、行く。




なぜか。




自分の身体の微妙な変化がわかるんです。




だからどうしたって感じ。私もずーっとそう思ってたんです。そんなの自分が頑張れば何とかなるのではないの、と。


でも、ナチュラル詩吟教室の生徒さんもよく言うんです。ちょっとした声の出方の変化にはっ、と気付いたり。



それがものすごーーーーーーく感動的ということが今日わかったんです。


きっとそれがものすごく大切なことなんですね。上手くできるとかは二の次で、変化を感じること。


それはつまり、こんな私が言うのもなんなのですが、「自分自身と向きあう」ということなのかもしれない。


毎日忙しく会社のため、家族のため、誰かのためにみんな一生懸命はたらいてますよね。そんな中で「自分自身のため」に何かするということが、昔より少なくなっている。休むつもりがテレビやインターネットをぼんやり眺めることに費やしてしまったり……。


そもそも習い事をする、というのは「自分自身のため」の時間をつくることなんですね。


***


私は今日のヨガのレッスンで、ただの直立不動である山のポーズで、いつもゆらゆらしていたのが、何故かビッと立っていることができて感動しちゃって涙がじんわりしてしまいました(気持ち悪い)。


ヨガを始めて3年目にしてやっとです。でも最初はゆれるのが当たり前で、まさかゆれなくなるなんて思いもよらなかったのです。


何が言いたいかというと、続けることで、見えなかったものが見えてくる。


できなかったことができるようになる。


と、なんとか自分を慰めたい気にもなりますが、仕事でも家族関係その他もろもろでもいろいろそういうことはあって、そういうことなんだなって思う。(なんじゃそりゃ!)


しかし、改めて考えてもヨガなんつーものは、宗教であって古典であってオカルトであって凡人にはできないものであったはずです。歴史的にみて。それが、今この現状で、遂には今期、あの道端ジェシカさんがでるヨガ映画までやるっていうではありませんか!!


こりゃーもーねー詩吟映画があってもおかしくないですよ!みんなに鼻で笑われてますが私は企画書考えてますからね!


面白いかどうかは別として、吟ずると歴史上の人物に会えるSFと頑張れと憧れの先輩みたいに吟じたいというラブコメで詩吟映画があったらいいなあ~。


▶他の詩吟コラムを読む
▶「ナチュラル詩吟教室」無料体験レッスンのお申し込みはこちら
▶「詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる」乙津理風著(春秋社)    

人前で吟じると6倍上達する



昨年末に開催したナチュラル詩吟教室の発表会の打ち上げで、一人ずつ簡単な自己紹介と感想を話してもらいました。


そこで、私も気づかなかった、衝撃の事実をピシャリと指摘された方がいました。正直ヒヤリとしました。今でもゾクゾクします。


私は発表会がある度に「詩吟は人前で吟じると6倍上達するんですよ」という言葉をみなさんにかけてきました。これを言うと「そうですか!じゃあやってみます!」 とやる気になるのです。


「なんで6倍なんですか?」ともよく訊かれますが、私の師匠が言っていたので間違いないです。とか適当なことを言ってごまかしています。実際はどうかというと、ほぼ確実に上達します。


なぜか?


発表会に向けて練習をたくさんするからです。 たとえ発表会本番がうまくいかなくとも、その後は確実に上達しています。びっくりするくらい。これがなんとも楽しいのですね。


先ほどの打ち上げの話に戻ります。ある生徒さんが、簡単な自己紹介のあとに言いました。


「先生が『人前で吟ずると6倍上達する』と言っていた謎が解けました!」


(な、な、な、なんだって!?)


「それは発表会の前になると、先生は6倍厳しくなるからです!」


一同笑いとともに、なるほど〜、と言った感嘆の声。思い当たる人多数ということでしょうか。一番思い当たるのは私自身です。しまった!バレたか。という後ろめたさがあるからです。


実際、発表会前は厳しくなります。ナチュラル詩吟教室は ハード・ナチュラル詩吟教室になります(なんのこっちゃ)。ただ安心してください。こわくないです。


でもちょっとしたルールあります。それは「発表会までに完成できない場合は出れない」ということです。これが厳しい。私自身も断腸の思いです。生徒さんが出たくても出させません。教える側が、そこまで教えられなかった責任問題でもあります。だから非常につらい。


どうしてそんなひどいことをするのか、と思われるでしょう。実はこれも私が師匠から教わったことなのです。特に昇段試験では、初心者の審査は甘く、ほとんど受験するだけで初段をとれるのですが、さすがにあまりにもできていなければ落されます。


これも責任は教える側にあります。できてない人に受けさせるとは何事か、ということになるのです。「本人が楽しんでいればいいじゃない」 とか、「自分が責任を負いたくないだけなのでは」と思われるかもしれません。確かにそうかもしれません。しかし、これを野放しにするとどうなるか?


詩吟○段とか、詩吟歴うんじゅう年といった立派な勲章をお持ちの方の詩吟を聞いてみると、あれあれ……?これって上手なの? ということになりかねないのです。


しかも、詩吟を聴く機会なんてめったにありませんから、初めて聴いた人は「これが詩吟なんだ〜。へー」となる。最悪の場合、「ちょっと聴いてられない」「ムリ」(こっそり逃げる)。サザエさんで言うところの、マスオさんのトランペット。ジャイアンのリサイタル。ちょっと違いますけど似てますね。


詩吟の場合は、いわゆる"伝統"と"段位"があるので褒めなきゃいけない雰囲気がある。昨今話題になっていましたが、よくない言い方をすれば、"伝統"とは少数派の武器にもなりうる。


まあ実際の詩吟はこれが現実です。詩吟を知らない人に詩吟を聴いてもらって「わからない」と曖昧な答えをもらったら、はっきり言って「まだまだ全然詩吟ができていない」と自覚してください。(これもまたギビしい……、それでも平気な人はどんどんやってください)


ただこれだけは言わせてください。


本当の詩吟は、歴も段位も関係なく、感動させることができます。


以前このブログにも書きましたが、詩吟を始めて間もない生徒さんが、友人の誕生日に、二人の好きな三国志に出てくる登場人物、詩人でもあった曹植の作った詩をサプライズでプレゼントとして吟じたら、泣いて喜んでくれたという話があります。


どういうことかと言うと、結局、人に聴いてもらうというのはコミュニケーションですから、相手がどう思うかを考えなくてはならない。ということです。どんなに上手でも、迷惑になるようだったらやるべきではないのです。あるいは、そういう雰囲気ではないときとか。


三国志の詩もそうですが、詩吟では有名な詩を吟じるのが絶対条件です。 それは聴く人がその詩を知っているということです。つまり、相手が詩を吟じている、それを聴いている、という行為から詩を共有している。いい詩だな〜と一緒に味わう。心と心が結びつく。


かつて江戸時代では、とくに幕末には、藩を越えて協力し合い、明治維新という革命を起こしました。各地方出身者はそれぞれの国のなまりがあって、話が通じにくいこともあったと推測されます。


そんな中、漢詩は共通言語でした。その志を共にするような詩を吟じ、交流を深めていった。それは日本だけにとどまらず、中国に渡った高杉晋作は漢語を書いて、大陸の人と会話をしたそうです。漢詩はアジアの共通言語でもありました。これは仲良くなれるツールでもありますが、知らないことを知ることができる、井の中の蛙から脱することのできる大きな力にもなります。


室町・戦国時代から、武士が謡をたしなみとしていたのも、共通のワードを持つということが要因の一つだったようです。


70年も前になりますが、戦前戦後の今より詩吟が日常にあった頃は、みな詩の内容がわかっていたので聴けたという、詩を共有するという自覚があったのではないかと思います。


では今、有名な漢詩や和歌や俳句が日常ではない現在においてはどうすればいいか。ここで私が考える、「詩吟を人前で吟じる時のマナー」を三つお話しします。まず一つ目です。


・詩の内容を解説してから吟ずる


こうして詩を共有してからですと、がぜん詩吟を聴く方も楽しんで聴くことができます。二つ目は、


・ことわりをいれる


「詩吟を始めてまだ少しなのですが……」とか、「こういう気持ちで吟じます」 とか、謙虚な態度でいれば大目に見てもらえるかも。最後三つ目、


・なるべく語り継がれている詩を吟じる


自分で作った詩を吟じてもいいとは思いますが、名作や詩吟を馬鹿にするような形にならないように注意しましょう。


一昔前は「詩吟なんて高尚な趣味ですなぁ。」と馬鹿にしてるともとれる発言で、少数派で古臭くなってしまった詩吟は足蹴にされていました。そして、それを逆手にとったのがエロ詩吟ですね。なんたる冒涜!と憤慨するかと思いきや、やってるこちらは詩吟を「高尚」なんて思っていない。しかも、現代の視聴者はもともとの詩吟を知らないので、別の笑いになっている……という。って考えすぎか……。


そんなことより、名作を吟じる利点はいーーーーっぱいあります。


まず知らないことを知ることができる。教養になる。と言っても最初は詩の意味なんてわからなくて当り前です。声を出すこと、少しずつ詩吟独特のメロディを体験していくだけで充分面白いです。気づいたらいつの間にか世界が少し広がっていた……なんてことも。


あと最大のポイントは、多少詩吟が完璧でなくとも、名作を吟ずるといい感じに聴こえる(!)ということです。「名詩の力」を甘受できるのが詩吟の美味しいところです。


というわけでいろいろ述べましたが、こうしなければいけない、なんてことはありませんので、参考にしていただければいいかな、と思います。


▶他の詩吟コラムを読む
▶無料体験レッスンのお申し込みはこちら
▶「詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる」乙津理風著(春秋社)  

今日、本当に嬉しかった話 〜 私がナチュラル詩吟教室を始めた理由



今日、ある生徒さんからメールをいただきました。  


その方からは、「今度身内の快気祝いがあるから、それに合う詩吟はありますか?」というリクエストをいただいていて、そのようなものはあまりないのですが、うーんと考えた末、荻生徂徠の漢詩「還館口号」がいいのでは、ということでお稽古をしていました。


この詩の転句では、


須く識るべし良宵 天下に少なるを
すべからくしるべしりょうしょう てんかにまれなるを


とあります。


「こんな良い夜はこの世にめったにあるものではない」


 という意味です。


背景には、美味しい葡萄酒を飲んで、富士山にはお月様がかかっている、という状況です。
ともあれ、「今夜は最高!」といった明るい雰囲気に満ちていて、飲み会でもなんでも場の雰囲気を盛り上げてくれる詩と、私は思っています。



話は戻って、その生徒さんのメールには、どうやら快気祝いの前に、学生時代の同級生たちとの久しぶりの飲み会があって、終盤にこれを吟じたとのこと。


それが思った以上に喜ばれたそうなのです。


しかも、年齢的・状況的にまさに小津安二郎映画(『彼岸花』)の笠智衆たち(同窓会の終盤に笠智衆が詩吟を吟ずる名シーンがあります/※気になった方は上記動画をご参照ください。『詩吟女子』でも詳しく解説しています)に酷似しており、彼自身も(かなり飲んだ後だったせいもあって)リラックスして笠智衆のように吟じることができ、終わった後は涙が出そうな気持になりました。


という内容のメールでした。


そして、「(同窓会が)詩吟必須の飲み会になりそうです。」とのこと。



私はこのメールを自宅でよんで、パソコンの前で一人、微笑んでしまいました。



と同時に、本当に嬉しい、胸が熱くなるような、何とも言えない気持ちになりました。



その時、ちょうど読んでいた本にこうありました。



「美しい日本語などという概念は、美しい人間関係があって、初めて可能なものだ。」 



 (『地図を創る旅』/平田オリザ(白水社))



語っている背景はちょっと違うかもしれないけれど、もしかしたら、そういうことなのかもしれない。何かがつながったような、或はとてつもなく大切なことに近づいたようなそんな気分でした。


また、私は自分が詩吟教室を始めたきっかけについて、すっかり忘れてしまっていたのを思い出し、ハッとしました。


その前提に、常々生徒さんたちには、出来の善し悪しに関わらず、ご家族やご友人に聞いてもらってくださいね、ということを言っているのですが、つまり、先の生徒さんはそれを実際にやってみた結果、そういうことになったわけで、まあなかなか勇気のいることなんです。


でも、なぜ私がそれをおすすめするかと言うと、実際に今まで何十年も詩吟の会の発表会でしかほとんど人前で吟じてこなかった私が、大人になってから、詩の意味を理解し、とても大切な友人たちの前で、その状況にふさわしい詩を吟じたときに、本当にびっくりするくらい喜ばれて、今まで感じたことのない、最高に幸せな気分に成り得たからなのです。



そのとき改めて詩吟の素晴らしさを噛みしめ、これはみんなに伝える価値があるものだと、若輩者で浅はかながらも確信し、ナチュラル詩吟教室なるものを立ち上げ、今に至ります。



ただ、それまでにもたくさん苦い経験はありました。



小学生の時に同級生の男の子たちの前で吟じたら、「やーい、へんなのー」と言われたり、オーストラリアへ短期留学へ行った際にホームステイ先の家族の前で吟じたら、そこの子ども達に笑われたり、 とかく外で吟ずることは「おかしなもの」とされてしまうことが続き、さすがにへこたれてしまいました(それでも辞めなかったのが救いですが)。



今思えば、普段聞いたこともないようなものに出会ったときに、笑ってしまったりすることは普通の反応です。わからないのが当たり前で、当の吟じている本人だって何がなんだかわかっちゃいないわけです。



私がこのようなことを言うのは、もし万が一、そういうことがあっても、そこには新しい何かが確実に生まれているのであって、気にしないでほしいという気持ちがあってからです。



そしてだからこそ、吟じている本人は、吟じる詩に対しての理解が最低限でもあるべきだ、と思っています。



***


先日、中学二年生の生徒さんと、島崎藤村の「初恋」の詩吟をお稽古しました。とっても素敵な詩吟なのですが、新しい旋律と「初恋」という照れもあってか、そのこが突然笑い出して、私は子供の頃の苦い経験を思い出し、年甲斐もなく素直に「傷ついた」と言ってしまいました。


ただその後に、ちゃんと詩の内容を説明すると、最初は意味がわからない、と言っていた彼女も理解してくれたらしく、 これに似たドイツのお話しを知っていると言って私に聞かせてくれました。詳しくは知りませんが、島崎藤村の「初恋」と同様に、林檎をキーにした恋の話です。


***


先日また嬉しかったのが、別の生徒さんで、詩吟を始める前から歌のレッスンに通っているそうなのですが、詩吟を始めてから歌のお教室で、「この短期間でとてつもなく上達した」と褒められたそうです。それで、彼女が言うには、


「(自分自身が褒められると)子供みたいに顔がほころんで嬉しいんですね。褒められることがこんなに嬉しいなんて思いもよりませんでした。自分の子供(既に成人している)にも褒めて育てるべきだった(笑)」


そんな嬉しそうにしている生徒さんをみて、詩吟のおこりうる可能性について考えています。


***


詩吟を吟じることは、その詩に近づくことだ、とこのブログでも常々言ってはいますが、結局のところ、上記にあげた笠智衆の詩吟のように、聞いているこちらは当然その吟じられている詩の言葉ないし意味などよくわからなくても、その声に、そしてその行為というよりもその態度に、感動するのかもしれません。


先日、開催した「お花見詩吟会」(とんでもなく楽しかったのですが、その様子を動画でもご覧頂けます)でほとほと感じたのは、 吟じられている詩の意味など(桜にちなんだつもりが)、実際には入ってこなくて、それよりもなお、吟じている人がいて、それを聴いている私たちがいる、ただそれだけなのです。


ただそれだけのことが、本当に感動的で、生きている喜びすら感じさせてくれる。


言葉を発する、発音する、その声の力が、精巧かどうかに関わらず、私たちをいい方向へ導いてくれるのかもしれません。


つまりは、コミュニケーションの核となるもの。


だからこそ、大切な人の前や、意を同じくした人の前で吟じてみる。


そこで、はじめて、日本語の美しさに直面する。


その心の通い方こそが、日本らしさなのかもしれない、と感じています。


▶他の詩吟コラムを読む
▶ナチュラル詩吟教室「無料体験レッスン」のお申し込みはこちら
▶「詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる」乙津理風著(春秋社)

詩吟とは、魂の救済である



"詩吟とは、魂の救済である"


と、まあ大それたタイトルをつけちゃったんですけれども、なぜか、というのは後半にとっておくとして、最近おこった嬉しいことを三つほど書きたいと思います。


まず一つ目に、関西に住む20代の女性から体験の申込があり、なんと大学のゼミで詩吟と社会学をテーマにした論文を書いたとのこと。


彼女は高校大学と詩吟サークル的なところで詩吟を学んできたそうですが、マンツーマンのレッスンは受けたことがない。されど、この度就活で上京するので、一度マンツーマンレッスンを受けたい、というわけで渋谷のカラオケボックスに来てくださいました。


彼女の書いた詩吟論文を拝見したのですが、一般的な詩吟概念では触れられることの少ない、詩吟の社会的あり方をよく研究されていて大変興味深いものでした。さらに、拙著「詩吟女子」を参考文献として使用してくれていました。


私は非常に感動しました。本当に嬉しく思いました。なぜなら、 自分が「詩吟女子」を書くにあたり、詩吟を調べるのに詩吟の資料が少なく、かつ難しく大変苦労して、「詩吟女子」ではできる限りわかりやすく書くことに務め、いつか次世代の若い人が詩吟について調べるときの参考になればいいな、という思いで書いたからです。


どれだけためになったかわかりませんが、夢が叶ったような気持ちで大変に喜ばしいことでした。彼女は本当にいろいろ調べて書くことが好きだそうで、就活も新聞社や出版社を受けているとのこと。そして、いつか本を出すのが夢だ、と私に話してくれました。


別れ際に心のこもった声で「どうやって出版にいたったのですか?」と聞かれたのが印象的でした。きっと、彼女はこれを聞くためにここまでわざわざ来てくれたに違いない、と感じました。私は精一杯答えたつもりですが、少しでも力になれたら幸いです。


何しろ、本当のことを聞くのも、言うのも、大変勇気がいることだと思うからです。


嬉しかったこと二つ目。


ナチュラル詩吟教室に入会してから三年目の生徒さん(50代・主婦)のお話しです。


彼女はちょっと変わっていて、私の所属する流派と違う流派のお家元のご子息の奥様という立場でいらっしゃいます。結婚してからずっと詩吟の世界に関わらざるを得なくて、お手伝いをしたりしていたそうなのですが、ちゃんと習ってはいなかったそう。


しかし、インターネットでナチュラル詩吟教室を見つけ、基礎から習いたいと思い、旦那さまとそのお母様である家元の了承を得、三年前から渋谷センター街のカラオケボックスに通うようになりました。


とても熱心で、私の所属する流派の発表会にも応援に来てくれるほどでしたが、そのような場に立てないというジレンマもあり、いよいよ自身の流派のコンクールに出てみるという気になったそうです。


そんなわけで、そのコンクールで吟ずる詩を稽古しましょうと言って稽古をしました。


しかし、問題なのが、所謂流派の違いということです。これは何かというと、基本の題材である詩や大まかな流れは同じなのですが、細かな歌い方と価値観が流派の違いとなります。私が教えられるのは基本の発声と志のみですが、価値観が大幅に違う流派の場合、私や私の所属する流派が良しとしても、ほとんどがそううまくはいきません。


そのような状態でしたが、忘れたころに彼女からメールが届きました。以下、頂いたメールを引用します。


-----------
昨日、吟道学院のコンクール埼玉地区予選に出場してきました。

目標は私のナチュラル詩吟を精一杯に吟ずることのみ!
と自分に言い聞かせ...

結果、漢詩部門で3位に入賞することができ、秋の決勝大会へと駒を進める事となりました。

緊張でガチガチで、とても満足のいく出来ではなかったのですが 、それでもこの評価を頂けたことは、ナチュラル詩吟と出会ってからの3年が認められたようで、それが何よりも嬉しいです。

周囲を気にせず、理風先生と学んだことをやればよい!と背中を押してくれた主人もとても喜んでくれて、夫婦共々、改めて先生に信頼と感謝の念を深めるばかりです。

そして、入賞よりも嬉しかったことは、出番を終えてロビーで放心状態の私に「あなたの吟がとても良かったかった」と声をかけてくれた女性がいたことです。
私自身は、思うように出来なかったと凹んでいたところだったのですが、その方は何かを感じてくれたようで「今まで聞いた峨眉山月の中で一番良かった」と言って下さり、先生と、一人でも感動してくれたらそれでいい、と話したのを思い出し泣きそうでした。

本当にナチュラル詩吟と出会えてよかった。
そうじゃなかったら、同じ詩吟に関わっていても、こういう感動とは出会えなかったとしみじみ思います。
心の中にずっと先生とナチュラルの仲間がいてくれた事もとても嬉しかったです。


これからも流派は違っても、私なりのナチュラル詩吟を目指し精進していきたいと心を新たにしております。

どうぞよろしくお願いします。
-----------


このメールを読みながら、一人笑顔がほころびつつも涙がじんわりしていて、よくわからない変な顔になりました。まあ、とにかく嬉しかったです。


ほとんど全てが彼女の実力に他なりませんが、彼女が詩吟をやってよかった、と言ってくれたのと同じように、私も彼女のおかげで、詩吟をやっていてよかったと心底思えることができました。


最後にもう一つ、嬉しかったこと。


先日7月5日に、七夕祭り発表会が開催されました。生徒さん32名が出吟。ご見学の方も多く、大盛況となりました。(上記動画で「みんなで吟じようコーナー」がご覧いただけます)


もうそれ自体が楽しく有意義であったのですが、今回は特に、初めて参加された方や、ご見学の方が、「面白かった」「また観たい」と言ってくれたことでした。


中でも、最年少で初めて参加してくれた5歳のRちゃんが堂々の吟じっぷりでした。 それにも増して、そのお母さんが吟者皆さんの発表にすこぶる感動してくれて、特にご夫婦で合吟をされたのを観て、家族吟がいい!と思われたのでしょう。次からお母さんも詩吟を始めることとなり、ゆくゆくは親子吟をやりましょう!ということで盛り上がりました。


私はこれまた心底感動してしまいました。


何だかうまくいえないのですが、いい方向に行っているなあ、という感じです。


これ以外にも、発表会ではたくさんの喜びと成長があってここでは書ききれないほどです。


思うようにできなくて悔しい思いをした人も、よくできた人も、みんな新鮮な体験ができたのではないでしょうか。かく言う私もいつも新鮮な体験に心を奮わせて勉強させてもらっています。


そんな折、私にとって大きな試練がふってきました。


テレビ番組(バラエティ)の出演です。


収録は終りましたが、まだどうなるかわからないので詳しくは言えないのですが、良い経験をさせていただきました。


具体的に何が、かと言うと、詩吟を知らない人に詩吟をどう伝えるか、ということです。


不慣れなことに上手く伝えられたか恥ずかしながら自信がありませんが、少なくとも詩吟とは何か、ということを改めて考えさせられたことは確かです。


番組内で投げかけられた、最大で最高な質問についてよく考えてみます。


「詩吟て歌なんですよね?」


そうです。そのとおりです。


しかもメロディはほとんど一つしかなく、それに言葉をあてはめていく。(故にエロ詩吟のようなギャグも成り立つ……。但し、本来の詩吟は、有名な和歌、俳句、漢詩に限る。)


ーー答えてから後。。ここからは、私の見解です。ーー


なぜ、同じメロディか。


メロディが同じだから誰でも歌える!(一つ覚えてしまえば難しくない!)


では、なぜ、わざわざ歌にするのか。


歌(音楽)は、魂の救済であるから。


故に、伝統として(良いもの)として受け継がれている。


という視点に改めて気づいた次第です。


ーーー


さっき夕飯を作りながら、何気なく昔好きだったロックバンドのCDを聴きいていて、こみ上げるものがありました。なんだか最近てんやわんやしてたけど、ぐっと心が収縮されて解き放たれる感じ。ああ、音楽は私の心を救済してくれるんだなぁ、と。


そこで、詩吟が歌(音楽)である意味がわかったような気がしました。


詩吟のメロディは、初めて聴いた人にも懐かしく、心を落ちつかせるものがある。


それに乗せて、自分(声)を楽器(音)として、素晴らしい文芸詩を奏でる。いくら良い詩があっても音楽として奏でなければ意味がない、とまでは言いませんが、そうすることによってより一層楽しめるし、他者とコミュニケーションできる。


詩吟とは、魂の救済である


大げさかもしれませんが、そんな言い方をしても悪くないかもしれません。



▶他の詩吟コラムを読む
▶無料体験レッスンのお申し込みはこちら
▶「詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる」乙津理風著(春秋社)    

今日泣いた話。だから私は詩吟をやめられない

詩吟でよく吟ずる松尾芭蕉も訪れた岩手県平泉にて

私がナチュラル詩吟教室を始めてしばしば、震え上がる感動が多々ある。

繰り返しになるが、だから詩吟がやめられない。

ちょっとぞっとする。それほど真をついてくる。

誰が?

生徒さん、なのである。


ナチュラル詩吟教室を始めて3年目くらい、本当に上手になられて、もういろいろいいくらいな生徒さんとの稽古での話し。



とても熱心で素直な方で、そしてずっと詩の意味には近づけないと言っていました。



私は『詩吟女子』を出版して、彼が少しでも詩に近づけたらな、と期待していました。本を買ってくれたのですが、読みましたか?と聞いても、まだです。もう一度、読みましたか?と聞いても、すみません、まだです。今日、三回目の読みましたか?を聞くと、ぱらぱらとしましたが読んでません。読みたくないのです。といいます。


なぜなら、彼は、詩吟を吟じることによって、じわじわと詩に近づきたいのだそうです。簡単に詩の意味など知りたくはない、ということ。


それはつまり、詩吟の起こった源流に即していて、かつて江戸末期に、詩吟が起こった由縁が、詩を声に出して吟ずることによって、自ずとその意味がわかる ”読書百遍意自ずから通ず”(読書は百編やって自ずとその意味がわかる)というのを体現したい、というのです。


私は泣きそうになりました。『詩吟女子』という本でわかりやすく解説するがあまり、詩吟の本意を失いそうでも確かにあったからです。本当の意味、本当の詩吟の凄さは確かにここにあります。それを忘れずにやっていこう、と決意をもった彼に感服です。


もちろん、『詩吟女子』を読んで、詩の意味を知ることの面白さ、それが入口で始めようという人たちのために書いています。それにしても、今まで受け継いできた型、それはいろいろな方法でありますが、大切な意を忘れずに、敬意を払ってその初心を忘れずに伝えていきたい所存です。


でも、なんだか嬉しいのは、かつて私も、詩吟の詩の意味をこれっぽちもわかっていなかった、ということなんです。


今日の稽古で改めて驚愕したのが(笑った)のが、私が長らく使っていた教本にやたらと落書きがあって、変なイラストとか、「期末(テスト)がんばるー?」(高校の同級生との会話)とか、好きな人の話し、とか、落書きがすごくて、全く詩に入っていないんですね。


今は、『詩吟女子』を書いたせいもあって、詩吟で吟ずる詩については大筋わかったつもりですが、それまで25年以上やってきた詩吟生活で、詩の内容から拒絶の20年間なんだったんだ!って感じです。


私は、全くすっとばした記憶なんですけども、もしやこれが、”読書百遍 意自ずから通ず”だったのか、というと今でいう「マジありえない」ぐらいなんです。それでも、そうなんですね。いや、きっとそこなんですね、本質は。


私は正直、とても意味もわからないような詩を、とにかく吟じてみろ、というようなことは、次世代にはやらせたくないです。しかし、そのような方法で得られる大切なことがいくつもあります。そして、受け継いでくれている人がいます。だから素直に泣けました。


やっててよかったなー


と、いう。


▶他の詩吟コラムを読む
▶無料体験レッスンのお申し込みはこちら
▶「詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる」乙津理風著(春秋社)    

新年会で盛り上がる詩吟「白虎隊」

宴会では余興がつきもの。パッと歌えて盛り上がるナンバーが欲しいところ。

謹んで新春のお慶びを申し上げます。
本年もどうぞよろしくお願い致します。


さてさて、早速ですが、新年会で盛り上がる詩吟をご紹介いたします。


「白虎隊」です!


本来の詩吟の「白虎隊」は、漢詩のみでまあまあ長いのですが、今回ご紹介するのは、詩吟の「白虎隊」の中でも一番盛り上がる部分を歌謡曲に挟み込んだものです。


めちゃくちゃうまい詩吟の方の動画がありますので、ご覧ください↓。


新年会で歌う際は、カラオケがなくても手拍子で十分。みんなで手を叩けば一体感が生まれ盛り上がる事間違いなし。そして詩吟の部分は手を叩くのを止めて詩吟に耳を傾けます。


詩吟の後もまた歌の部分が続くので手拍子スタート。最後の「花も会津の白虎隊」の繰り返しは、揉み手をしながら全員で大合唱です。


私も早速今年の新年会で歌ってきました!超盛り上がりました!中年以降の方はよくご存知の方も多いですし、メロディは一般的な民謡調なので、若い人にも不思議と懐かしく馴染み深く感じられます。


「白虎隊」は名歌手たちにカヴァーされていますが、美空ひばりがめっちゃかっこいい!



さて、「白虎隊」の練習方法ですが、とにかく自分の好きな「白虎隊」を探して聞きまくって真似しまくるです!特に詩吟の部分は人によって様々吟じ方が全然違います。どれが本当なの?というふうに思われるかもしれませんが、どれも本当。詩吟は人によって違うものなのです。


じゃあどうすればいいか。この人のを真似しようと決めたら、その人に絞ってそれを真似する。そして自分の中に染み込んできたら、自分なりに歌えるようになる(日がいつかくる…)。


それでもなんだか思うようにいかない場合は、詩吟を習いにいってもいいかもしれません。

▶無料体験レッスンのお申し込みはこちら
(さらっとリンクを貼ってみる笑)


さてさて、盛り上がると言えども「白虎隊」の内容はお正月とは程遠い。内容も新年にふさわしく、詩吟だけでバシッと新年会にはまるものはないですか?という方には「宝船」がおすすめです(下記リンクで視聴できます)。


[1月]お正月に吟じたい詩吟「宝船」藤野君山


「宝船」は、おめでたい内容なので、新年会以外にお祝いパーティー等でも重宝しますよ♪
(おめでたいパーティーで「宝船」を吟じている動画をご覧下さい↓)




今年もいろいろな詩を吟じて毎日楽しんでまいりましょう!!


▶無料体験レッスンのお申し込みはこちら
▶『大声のすすめ。和の発声法で伝わる話し方』(晶文社)
▶『詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる』(春秋社)  

詩吟上達のためのたった一つの方法



こんにちは。ナチュラル詩吟教室・講師、乙津理風です。


今日もたくさんの生徒さんとマンツーマンのレッスンをしてとても有意義だったので、その様子をこのブログで少しずつお話ししたいと思います。


まずはじめに、詩吟を始めてもうすぐ1年になる生徒さん(20代女性)。はじめた頃は本当に蚊の鳴くような声をしぼり出すので精一杯だったのに、今日の稽古では芯のある声が出て本人もびっくりした様子。


「人前で吟ずると6倍上達する」からと言ってずっと発表会に誘ってはいたのですが、「もう少し上達してから」とにごされてきました。しかし、稽古を重ねる度に確信を得てきたのか、今度の発表の場でやっちゃおっか!?と言ったら意を決したようです。


とは言え、私からすれば彼女は本当に才能のある(これはみんながもっているものなのですが)、しかしその出し方がわからないだけであって、それを導くきっかけが詩吟とでも言いましょうか……。


ちょっとした本人の勇気と、あとは教える側の「いいものはいい」という確信だということが改めてわかりました。


多少の不安を見せつつも意を決して発表すると決めた彼女の生き生きとした表情が、何だか見ているこちらも元気になっちゃうのでありました。


そんなわけで、声の小さい人も、声を出すのが苦手な人も一年地道に頑張れば、出るようになるし、人前でやる勇気も出るということがわかりました。もちろん人によりますが、一年は頑張るということが、何よりも大事なのかもしれません。


***


次は、詩吟を始めて3年目になる生徒さん。 人前で話すことがお仕事で、それをさらに拡張すべくかなりレベルの高い朗読の教室にも通われているそう。


詩吟では初段をとられてから、詩吟を武器にしたいという思いがじわじわ高まっている様子。


しかし、彼女曰く、人前で話す仕事は緊張しないのに、詩吟のたった一分半がとんでもなく緊張するとのこと。そのおかげで、さらにお仕事が楽に感じられるようになったのはいいことですが、なぜそんなにも詩吟が緊張してしまうのでしょうか。


よくよく話しを聞いてみると、朗読や演劇、はたまた詩吟の場で、いかにも自分酔いしているものがどうにも受けつけられないとのことでした。理由はともかくてして、確かにそういうことってありますよね。


それで、彼女が朗読や詩吟の稽古を一生懸命しつつも、もしや自分酔いしている口調になっているのではないか、という不安がどうしても沸き起こってしまうと言います。


もうその時点でとっても謙虚だし、聞く耳も肥えていると思うのですが、その不安が故に自信が持てない。


では、どうしたらいいか。


ここに詩吟と古典芸能の真髄があります。


その答えは、型稽古に徹底せよ、ということです。


どういうことかと言うと、とにかく師匠のモノを徹底的に真似することです。


言葉の口調、細かく分けると、スピード(長さ速さ遅さ)、強弱、高低、間の長さ、それら全てを徹底的に真似する。


例えば、歌舞伎などは代々誰か分からなくなるほど徹底的に生き写しのように受け継いでいく。詩吟はそこまでやらなくてもOK。声色まで真似しなくていいのですが、それ以外の音的な部分、つまり、リズム(強弱、緩急)を真似っこする。それだけでもだいぶ上達します。


なぜなら、少なくとも師匠はあなたよりできる人なわけです。それをそっくりそのまま真似すればできる人に近づくというもの。わざわざ未熟な自分で編み出した何かを投じるまでもない。真似に没頭すれば、自分酔いなど入れる隙間もないからです。


これが、長年受け継がれ、なくなることのない、貴重な伝統芸の技の基本となるものです。さらにいろいろなことに応用できる。「まねる」の語源は「まねぶ」つまり、「まなぶ」こと。真似することが究極の「学ぶ」ことだということを昔からやってきたわけです。


「パクリ」とは違います。基礎をつくることです。それができて初めてみえてくる。しかもそこからがびっくりするくらい楽しい世界が待っている。


逆に教える方は徹底的に真似させる必要がある。手本をみせる必要がある。
どこが手本とずれているか、気付かせる必要がある。


それには本当に短いフレーズでも全身全霊を集中させて聞くこと。そういう風にしむけること。そういう稽古は、歌が上手いとか声がいいとかは別として、やればできる。


真似っこは結構簡単です。なぜなら意識しないレベルのものだから。


それをあえてやってみる。そうするとそんな些細なことが強化される。


詩吟の上達にはそんな些細なことに気付くというプロセスがある。


このプロセスは或らゆるもののノビしろを兼ね備えているかもしれない。


それが今日の稽古で特に実感したことでした。


***


最後に。実は先に書いた徹底的に真似をするという稽古を始めて些細なことに気付いたのは、他でもないこの私でした。長年思い悩んでいた謎が解けて頭がぱかっと開いたような気分でした。後から考えると当たり前のことのようなのではありますが、ここに記します。


ナチュラル詩吟教室を始めて4年目になる生徒さん。


詩の意味には敢て近づかず、吟じているうちに気付いていくという「読書百遍意自ずから通ず」(読書は百回読めば自然とその意味がわかる)という、江戸末期から明治時代の素読のやり方(寺子屋が学問所で行われた漢文を声に出して読む勉強方法でこれに節をつけたのが詩吟のはじまり)を体現したいと続けている生徒さんがいます。


私としては、そのやり方は古く、やっぱり詩の意味に対する理解がないといい吟はできないとずっと感じていました。というか、”読書百遍意”はあまりに難しく、時間がかかることではないかと思い込んでいたのです。


しかし、難しい漢詩の現代語解釈を読んだところでわからないものはわからない。それを自分勝手に理解したつもりになって表現しようということ自体が傲慢だったのかもしれない。


漢詩、和歌はもちろんのこと、俳句であれば世界一短い定型韻文詩です。五七五のたった17文字の中に様々なことが詰め込まれている、いわば、抽象化された芸術です。その詩の意味をつかめというのは、ピカソのへんてこな絵の意味を答えよ、と言われているようなものではないか。


というのは言い過ぎですが、無謀なのです。いきなり他人の作った詩の意味を歌で表現せよ、というのは。


では、どうすればいいか。


それで、逆説的に考えてみました。


長年型稽古を続けてきた私は、「海」という言葉は海っぽく、「人生」という言葉は人生っぽく、少なくとも詩吟においては言える技が身についています。しかもそれは、詩吟で吟ずる短い定型詩の上で前後の文脈を考えながら 、その詩にふさわしい「海」も「人生」もそれぞれ様々なバリエーションで言い分けることができる。


これは単に自慢したいわけではなく、長年やり続けて染みついた習慣のようなもので、例えばこの料理にはこれくらいお醤油を足したらいいとか、そういうのがぱっとできる毎日料理している主婦の知恵のようなものだと思います。


しかも自己満足に終わらず、聞く人もまさに 「海」や「人生」をリアルに感じられるような言葉になっている。料理で言えばちゃんと美味しいものになっている。


ということはどういうことかと言うと、先も述べたように、とにかく「海」と言うときの口調、スピード(長さ速さ遅さ)、強弱、高低、間の長さを徹底的に真似すれば同じ結果になる。つまり、海らしい海が言えるようになる。海を頑張って想像したり、海らしい海を言おうと自分で創造したりする必要なしにです。


料理で言うなら、このタイミングでこれだけの塩を少しずつ振りかける、とかそういった現実的な行動を型通りやりさえすれば、美味しい料理ができるということです。


つまりは、その細かな型(やり方)を真似すれば、「海」の意味が立ち上がってくる。歌いながらにして初めて海を感じ、思い描くことができるというわけです。


海を見たことがない人でも海を感じることができる。


と言うと極端ですが、小説でも映画でも読んだり観たりすることでとても体験できないようなことを疑似体験できるわけです。


それと同じようなことがこの言葉の言い方一つで体験できる。詩も同じで何百年何千年前の人が体験したこと、思ったこと、情熱だったり、生き死にをみた瞬間だったりですが、詩を詠うことで疑似体験できるとまでは言いませんが、知ることができる。


そういうプロセスを経て、詩の意味に近づけるんだということがわかったのです。


***


ここで、ある違う生徒さんなのお話しです。彼のおじいさんがたくさんの漢詩や和歌を残されていて、それを吟じたいということで私が節をつけて吟じる、という稽古を最近やっています。


戦中、戦後を生きてきたおじいさんの詩はぱっと見の字面ではとても理解できるものではありません。素読してみてもやっぱりわからない。しかし、節をつけて吟じてみると、ややや、わかる、わかるぞー!となってくる。


とても難しい漢詩が、吟じてみると何だかわかるのです。とてもふしぎな体験でとても感覚的なのですが、これがもしや江戸時代に漢文という外国のものを理解しようとして詩吟に発展したプロセスの由縁なのではないか、と思うようになりました。


歌うことで音楽にする、音楽に相当の(魂を救済するような)力があるのは感覚的にわかるのですが、それがとにかく真似っこするという型稽古によって、その詩の意味まで理解できるに至るということを改めて確信しました。


そう言えば、江戸の儒学者・荻生徂徠は、漢文の訓読読みではその理解には浅く、中国語の音のまま学ぶべきだと主張し、外来主義だとお国から批判されて彼の多大な貢献は(ここで説明は省きますが、儒学の教えをわかりやすくしたこと)公には認められなかったといいます。


そもそも言葉の音声は音から成り立っているのであって、音があって言葉になってその意味となるのですから、当然と言えば当然ですね。


ただ、このことがしっかりとわかった上で、これからまた型稽古に励むことは、上達のためにとても有効だと思います。


▶他の詩吟コラムを読む
▶無料体験レッスンのお申し込みはこちら
▶「詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる」乙津理風著(春秋社)

詩吟は心が豊かになる



先日、ZIP-FMという名古屋のラジオ局に電話出演させていただいて、詩吟についていろいろお話しさせていただきました。


中でも、最後に「詩吟を楽しむ鍵は○○」というキーワードの部分があって、事前に用意しておくよう課題としていただいていました。(そのコーナーでは、毎回何かしらテーマがあってそれで〆るというもののようです。)


実は、これにはすこぶる悩みました。


こういう大切なことを一言で表現するのは非常に難しいことだと、改めて聞かれて気付かされたわけです。


毎日が詩吟修行中の身の私にとっては、「生きている意味って何ですか?」くらい、まるで答えの出様のない難問でした。


悩みに悩んだ挙げ句、ナチュラル詩吟教室の生徒さんはみんなどう思ってるんだろう?、と思い、生徒さん一人一人に聞いてみたんです。


すると、詩吟を楽しむ鍵とは、「日本語の美しさ」とか、「地声」とか、「自分をさらけ出すこと」とか、人によって様々でした。


それで改めて、「詩吟の楽しさとは、人によって様々なのだな~」ということがわかりました。つまり、詩吟は多様性あるんだと感じたり。


それにしても、これまでの生徒さんの意見は、詩吟を実際に習ってみて、その上でしかわからない実感によるものであるということに気付いて、これは詩吟を知らないラジオリスナーには飲み込めない意見なのかもしれない。


なので、もっともリスナーから離れている、長年詩吟漬けの私の思っている「ところてん論」や「ギャップ論」(意味不明)はとてもラジオでは言えないなー、と感じていたところでした。


そんな中、ある年配にさしかかりの生徒さんが、(詩吟を楽しむ鍵とは)「詩に恋をする」ではないでしょうか、と言うんです。やだー!そんな恥ずかしー!って感じです。


でも、あながち間違ってはいなくて、私自身、詩を好きになって詩吟が好きになるという系譜をたどって著書『詩吟女子』という本が書けた、というところもあり……。


その理由は?、とその生徒さんに問うたところ、「心が豊かになるからです」とありがちな言葉を冗談まじりにしっかと言われる。そんな曖昧な……、と思いながらも、これだ、と思う確信がある。



「心が豊かになる」そこに何の意味があるのでしょうか。



私は半信半疑のまま、しかし、底知れぬ自信を持ちながら電話収録で、そう答えました。



「詩吟を楽しむ鍵は、”詩に恋をすること”」



なぜなら、”心が豊かになるから”です、と。



収録が終わってから、堰を切ったように、パーソナリティの方から感嘆の意が伝えられました。


よくよく話を聞いてみると、彼女のお母さんがかなりの詩吟通で、数年前に亡くなってしまったのだけれども、そのお葬式では本人の意で詩吟を流したということ。自費出版で詩吟の本まで出しているということ。そして、詩吟は、”心が豊かになる”と言っていたということ。


娘さんであるパーソナリティの彼女にとっては、詩吟が、ただ歌うだけなのに、なぜ、母がこんなにも”心が豊かになる”と言って、詩吟を愛してやまなかった意味が、今まで全然わからなかった。しかし、その意味がわかったような気がします。と、私に言ってくれました。


私はとても嬉しい、何とも言えない気持ちになりました。


彼女のこのエピソードを聞く前に、私はこの番組の詩吟に対する質問で、詩吟が女性にもうけていますか、という中で、みんなに伝わってほしいという気持ちで、敢えて論理的に話しました。内容はこうです。


「詩吟に興味を持つ女性には大きく三つの傾向があって、一つ目は、和の習い事を始めたいという方で、中でも詩吟は道具もいらないし簡単に始められるからといった方、二つ目は小さな声で悩んでいて大きな声が出せるようになりたいOLさん、三つ目は声優さんやタレントさんを目指して一芸を身に付けたいという20代の方なんかもいらっしゃいます。」


しかしながら、この枠組みにもハマらない人はもちろんたくさんいて、その中でも、お母さんがやっていて、とか、お父さんがやっていて、とか、 おじいちゃんがおばあちゃんが、という話しも本当にたくさんあるんです。


そういう人たちの詩吟をやってみたい動機というのは、言葉に尽せないというか、もしかしたら別にやりたかったわけじゃないのにやらされていた、みたいのもある。


でも、何年か経て、何となくやってみようかな、お母さんやってたし、みたいのがある。


それが伝統文化の一つの自然な流れなのかもしれない。


***


正直言うと、コツコツ積み重ねていく世界だからとても楽しいばっかりとは言い難いこともあります。だからこそ、詩吟をやる上で、やっててよかったなあと思えるようになれたらいいなあ、という思いで『詩吟女子』という本を書きました。


もちろん、詩吟を知らない若い世代にも伝えたいという思いが一番で書きましたが、自分を含め、詩吟をやってきた人が誇りに思えるようなものにしたい。


それは結局、日本の文化を伝え残して来た先代を誇りに思うことだったり、お師匠やご先祖様を誇りに思うこと、つまりそれが、自らを誇りに思うことにもつながるのだということ。


そして、実際に自らの身体に詩吟を響かせることによって、そのようなことが体感できるのが、詩吟なのです。


だから、詩吟は続いているんだと思います。


何より、若い女性が詩吟をやってるなんて珍しいから、ということもあって(もう若くないけど)、出版を快諾してくださった春秋社さんに、詩吟を広めるきっかけを作ってくださったことに、本当に改めて感謝しています。


本を出したことによって、今回のようなラジオ番組に出演させていただいたことで、詩吟を知らない人たちに向けて、詩吟についてお話しさせていただく機会を得られることができました。


また、詩吟を愛してやまないお母さんをもったパーソナリティの方との素敵な出会いもありました。


だからこそ、この本がきっかけに何か心が豊かになるようなことが起これば本望です。



▶他の詩吟コラムを読む
▶無料体験レッスンのお申し込みはこちら
▶「詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる」乙津理風著(春秋社)    

失うものは何もない

母(師匠)と箱根のススキ草原に行ってきました。

こんにちは。ナチュラル詩吟教室講師・乙津理風です。


2月末には生徒さんたちの昇段試験があって、みんなそれに向けてがんばっています。


また、春のイベントとして楽しみなのが、私の所属する流派のさらにその認可団体・岳智会の「新人吟詠発表会」なるものが、毎年4月に府中の市民ホールで開催されます。


初伝以下(比較的始めて日が浅い)の人だけが参加できて、しかもコンクール形式となっていて、毎年出吟者は40名程。その中から、審査員の合計点の高い順から、精進賞2名、努力賞2名が選ばれるというもの。


詩吟というあいまいな芸術に点をつけるなど、全く道理に反しているようにも感じますが、市民ホール規模の客席100名以上の舞台で一人で吟ずることができる、という意味では、結果の善し悪しに関わらず、たいへん経験になります。


そして、「人前で吟ずると6倍上達する」という魔法の言葉があるのですが、このような正式な舞台に立てば、それ以上は見込まれること間違いなしです。


なにせ、主役は、始めて間もないあなた。そして観客は、長らく詩吟をやっている先輩方なのですから、あたたかーい目で見守ってくれます。詩吟に対する免疫が全くないご家族、ご友人の前で吟ずるより、ある意味、気楽かもしれません。


というわけで、ナチュラル詩吟の生徒さんには、毎年たくさんの方にご参加いただいています。


出来の善し悪しに関わらず、出ると決めたその日から、当日出番が終わるまでの、今までと違う非日常が訪れるかもしれないし、それまでの過程がきっと上達につながるのでしょう。


とかく、繰り返しになりますが、コンクールの結果が全てではない、ということです。


「あなたが人前で、声を出して、吟じたことが、全てです。」


それでも、せっかく出るからには、入賞めざしたいとか、詩吟ではどういう評価がくだされるのか、といったことを垣間みたい方のために、少しだけお話をしたいと思います。


***


2012年のことでした。



この年の新人発表会には、ナチュラル詩吟教室からは、9名が出吟、内7名は初出場。内6名は初舞台。たまたま詩吟を聞いたのがきっかけで始められ、半年も満たない方、長くても2年半。20代1名。30代2名、40代2名、50代2名、60代2名。男女も半々ずつくらいでした。


ナチュラル詩吟教室からの出吟者は、他の支部(競合)に比べ、若い世代が多かったので、、もしかしたらナチュラル詩吟教室メンバーが賞を総なめしちゃうのではないか(なぜなら、力強く素直な吟がうちの会では評価される)、という淡い期待を抱いたり抱かなかったりもしたのですが、それでも結果、1名が精進賞を受賞されました。


彼の吟は満場一致で一番良かったようでした。受賞発表前にもあの人の吟よかったね、と何人かに声をかけられましたし、ナチュラルメンバーからも以前聴いた時より大変良かったという声があがりました。


彼の吟の何が良かったのか。


誠実さ、それと何とも言えぬ皆が共感できる良さにあったと思います。


彼は、詩吟の発表会を流派を超えて観に行っていました。そして良い詩吟とは何なのかを研究されていました。


良い詩吟はありましたか。と聞くと、全国から選抜された吟歴の長い猛者の集まる発表会でも、「いませんでした」と、素直に答えてくれました。良い詩吟とはどういう詩吟だと思いますか?、と尋ねると、うーんと考え込み、「心に残るようなものだと思います」、と言いました。


結果、彼の吟が聞く人の心に残ったわけですが、いろいろな発表会を観にいかなくてはいけない、ということが言いたいわけではありません。


良くなくとも他の人の詩吟を聞く機会はあった方がいい。人の詩吟を聞いて、こういう詩吟はいかがなものか、とか、もっとこうしたらいいのに、というような気持ちが沸くだけでも向上につながるのではないか、というのが考察ではありますけれども、もっと大切なことはいくらでもあるような気がいたします。


そもそも詩吟とは、自らを乗り越える力をつけること。だとすれば、今回の発表会に関しては、声を出すこと、舞台に立つこと、この非日常に挑戦することそれ自体が、向上につながるので、参加することに意義がありますから、それだけで、とても意味のあることだと思います。


それでも、思うような詩吟を吟じることができなかったのでもっと頑張りたい、とか、詩吟らしい詩吟が吟じたい、という目標が、今回発表会に参加された生徒さんからあがりました。


詩吟らしい詩吟を吟ずること。



そもそも詩吟らしい詩吟とは何なのか。



それについてじっくり考えていきたいと思います。


***


つまるところ、詩吟は手段ではなく、詩吟に没入すること。


「そうすれば自ずと個性が出ますでしょうか。」とある生徒さんに尋ねられたことがあります。なかなか難しい質問です。しかし、個性を出すことが良い吟につながるわけではない、と答えました。


長い歴史と多くの人々によって淘汰された良い詩吟という共通意識に行き着くから、理屈抜きで、みんながあの人の詩吟は良かったねえとなるわけです。古きを信じて型を修得する。「稽古」の語源は「古(いにしえ)を考える」。「稽」は「考える」という意味です。


現在に生きる素晴らしい一個人としてのあなたが吟ずるのですから、それは過去に存在しなかった、今までにはない作品に自ずとなることでしょう。


また、身体芸術であって、身体(個人)を意識しないこと。大きな声と身体の力みとは全く比例しないこと。なぜなら、響く声を出すための丹田呼吸で使われる深層筋は意識でコントロールできないからです。



じゃあどうすればいいか。



言葉に意識を向けること。言葉のもつ世界を想像すること。その世界を大きく広げること。自分なりに解釈して感情を集約させること。



詩吟らしさとは、言葉のもつ想像力を、現在の自分が、飲み込むことなのかもしれません。



とは言え、発声がままならないうちに感情的になると、嘘っぽい詩吟になるので、注意が必要。物悲しい詩だから悲しそうに吟じてやろうというのは、別に悲しくもないのに、悲しそうな表情をしてればいいんでしょ、といったものと同義で、嫌悪感さえ生まれかねません。


『吟道奥義抄』(日本詩吟学院)の「一 吟詠の修得」の第一には、「作詩者や詩中の人物となり(中略)味わうこと」とありますが、それはさすがに何百年も前の生活も環境も何もかも違う、例えば李白さんの気持ちになってというのは想像を絶します。


しかしながら、詩吟が音楽以前に、漢字というイメージ言語と、やまとことばの音声言語であることから、この日本語特有の言語芸術の特性を活かすためにも、 「山月」がでてきたら、山や月をイメージする、「しらゆき」、がでてきたら白い雪のイメージやその言葉の音のやわらかさを想像する。


ここからはちょっと難しいかもしれませんが、「白雪」から連想する個人的な思い出や妄想を始めて別次元へ持っていってしまう。


<私の妄想>ふわふわな雪が降ってきて傘もささず歩いて いてコンクリートだから落ちた雪はすぐ消えてなくなる。ふと見上げるとうわーっと大きな塵のようなものが斜めに世界をおおっている。田舎の庭に積もったふ かふかの雪。足跡ひとつない。雪だるまをつくったり、みかんを食べたり…。


ここまでいくと、現今の意識も身体も時間軸もゼロになり、無意識によってしか引き出せない丹田呼吸が自然とおこり、とても自然でナチュラルな詩吟ができるのです。


声を出しながら、そんな独りよがりになれないよ〜と思うかも知れません。


普段こういった妄想や感情を表に出すことは控えていると思います(変な人に思われたら色々困るので)。


でもね、そういったモヤモヤを、詩吟を使ってここで一気に解き放つことができます。ガチガチに固まった意識が解き放たれる。 ゆえに、スッキリする。ゆえに、健康に良いにつながるのではないでしょうか。


詩吟がストレス解消になるとか、健康にいいだとか、とおりいっぺんのうたい文句におさまらない、何かがスーッと抜けたような、また、身体も心もあったまったような感覚が得られるのかもしれません。実際、腹筋を使うと身体全体があたたまります。


しかも凄いのが、これが逆説的に働くということです。


***


何年か前に、私が琵琶ギター詩吟ライブをしたときに、まだ始めたばっかりで、当の自分はうだつのあがらない、いろいろ仕事だの恋だの悩みだしたらキリがない状態だったのですが、観に来てくれた友人から、「悩みなんてひとつもない人にみえたよ!」と言われ、とても晴れ晴れとした気持ちになりました。


そして、それまで詩吟は何かのためにやらなければならないこと(もちろん今でも使命感をもってやっていますが)、縛られていたものが一切抜けて、吟ずれば吟ずる程、楽しくスッキリするようになりました。


ここだけの話、それまで10年来ストレス解消の手段としていた、カラオケで尾崎豊を熱唱することへの興味もすっかりなくなっていました。


***


話は、2012年の新人発表会に戻ります。



新人発表会を終えて、打ち上げ。精進賞を受賞した生徒さんのおめでとう会、みなさんお疲れさまでした会を伊勢丹9階の日本料理屋さんで行いました。16時からビールで乾杯。他の支部の方から、私たちは異質(比較的若いから)と写ったようで、いろいろ聞かれたのでカラオケボックスでマンツーマンの指導を受けていると説明したら驚かれていました、というお話し。ベテランだから良い吟かと言えばそうでもない人もいるんですね、という感想。


後日父にも(父も師範クラスで会に参加していたのですが)、よくあんなに大勢参加してくれたね。と言われました。父は戦中生まれで、詩吟の衰退は、戦後軍国主義として敗訴されたからだ、とか、もっと教育に取り入れるべきだとか、よく言っていました。


そのせいばかりではないのですが、何となく私も詩吟の歴史を調べるのに妙な嫌悪感が沸き立って仕方がないのは事実にありました。


そういうこともあって、今回の打ち上げの席で酔った勢いで、本来の詩吟の素晴らしさは戦後、その他の身体技法と共にGHQによりいったん断絶されていて、そのこと自体知らないから詩吟がアングラなのだ、なんて事実無根な話しをしてみたものの、ナチュラル詩吟の生徒さんたちにはなんのこっちゃという表情をされていました。


後になって読んだのですが、内田樹氏の著書『武道的思考』(筑摩選書)に、自分の意見は何の影響力にもならないし、他人の批判をしたところで技術は向上しないという内田氏の合気道の師匠・多田先生が言っていたそうな。しかり。


コンクールは詩吟の本質を問うものではないし、今後もっと自由な形式の発表会がやりたい、と力説したつもりが、「私たちは普段味わえないこのような機会を、先生が思っているより楽しんでますよ。」なんて生徒さんに言ってもらったりして恐縮しました。


むしろ、発表会に参加した生徒さんたちが、目をキラキラさせて、「楽しいです!」とか、「詩吟って人がでますね」、などの感想をもらって、詩吟の捉え方は本当に人によって様々なんだなとつくづく思います。


***


実は、昨年の2014年もナチュラル詩吟教室の生徒さんが精進賞を受賞しました。堂々たる吟じっぷりだったのですが、当の彼女にその秘訣を聞いてみたところ、


「失うものは何もない!」


ということでした。


どういうことかというと、詩吟は仕事でも何でもないのだから、間違ったって何したって、誰にも迷惑かけるわけじゃない、というわけです。


それは、わからなくもないのですが、よくよく聞いてみると、彼女は数年前に和太鼓を始めたそうなんです。しかもとっても楽しかったとのこと。でもね、発表会が近づくとプレッシャーでどうにもこうにもなっちゃうそうなんです。


和太鼓の発表会の場合は、もし間違えたら連帯責任になっちゃう。これが、彼女にとってはつらかったそう。そう言われてみると、確かに、詩吟は基本一人だから、もし間違えても人に迷惑はかからないですね……。


あと、合吟という複数人で一緒に吟ずるのもあるけど、ちょっと間違えたぐらいじゃ目立たないし、ぴったり揃ってないくらいが粋だったりもします。


そういう意味でも、詩吟が、思いっきりぶっつけられる、失うものは何もない、というものでもあるということかもしれません。


そして、そういう気持ちで挑めば、変に緊張せずに、堂々といつも通り吟ずることができるのかもしれません。


***


お教室の空き時間に、渋谷センター街のブックファーストで立ち読みした映画監督のデイヴィット・リンチの『大きな魚をつかまえよう』という本に、観客の感じ方はそれぞれだし、観る環境にもよるわけだから、感動させようとか、そういったことは無意味、というようなことが、ぱっと目に入りました。


今度の発表会で、また新たな発見を楽しみにしています。


▶他の詩吟コラムを読む
▶「詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる」乙津理風著(春秋社)  

もしこんな詩吟マンガがあったら




昨日のレッスンで、生徒さんから、民謡や津軽三味線のマンガがあるらしいという話しを聞きました。なんでも、コンクールに向けて頑張るんだとか。なぬ!それでは詩吟マンガがあっても全然おかしくはないではないか!


ここは敢えてそのような既存のマンガの内容を調べないでおいて、いろいろ構想を練ってみることにします。コンクールに向けて頑張るなら、まあどこも一緒ですよねえ。


そう言えば最近、私が詩吟ボーカルを務めるバンドことneohachiのシンセサイザー・エリーから能マンガを借りたばかり。その名も『花よりも花の如く』!少女コミック「花とゆめ」連載のバリバリの少女漫画でまあ引くぐらい美しいこと極まりなし。


主人公のいわゆるメガネくん(実は超かっこいい男子)が、能に励むというもの。能役者としての生活もさることながら、その私生活のことある事件と、演目の内容が図らずも、というか、もちろんよくできてリンクしています。


能の演目の内容の理解にもなるし、とっても能が観たくなる。しかもぜーんぜん難しくない。演劇としてのセリフとか声の出し方みたいなものは、 それこそまったく重点が置かれてなくて、見た目の美しさとか、本来そうなんだけど、そういうところ、がんばってる感じとか、能が大好き!っていう感じ、あと家族みんなが応援してまーす!っていうのが、本当にあったかくて良い感じです。


例えば、バレエ漫画に置き換えればよくわかる気がしなくもないです(読んだことないけど)。


それにしても、見た目が美しいとこんなにも惹きつけられるのか~、と思っちゃうぐらい素敵です(決してイケメン目的ではない)。



で、もし詩吟マンガがあったら、という妄想です。



詩吟には能のような芸能として、エンターテイメントとしての見せ方はありません。しかし、コンクールとなると、超派手な着物で豪華な舞台で吟じる、というステージが無きにしも非ず。


それこそマンガになったら、魅力的だろうーなーと思います。美男美女が美しい着物で吟ずる……的な!


しかーーーし、実のところ、それはある一定の流派に限る、いわゆる決まりであって、ほとんどの流派がそこに重点を置いてません。


つまり、豪華な衣装でなくても、吟が良ければいい!ということ。


そうなると、なーんだ、つまんない!ってなりそうなんですけど、そのがっかり感から詩吟マンガが始まったら面白いんじゃないかなーって思ったりしてます。


派手な着物着てかっこいいから始めました!という主人公が、あれあれー!全然地味じゃーん、失敗したー!みたいながっかりから始める。しかしそこにはとんでもない面白が待っていた…!!!!!!



なんてね!



そんなことばかり考えていたら、数年前の出来事を思い出しました。



ナチュラル詩吟教室かけ出しの頃、大学生の生徒さんがいたんですけれども、彼は、その大学の詩吟部に、半ば騙されたようにして入ってしまった (まあ、サークルとか部活の入部ってそんなもんですよね)。で、まあその部活の稽古が厳しいし(なぜか走り込みとかやらされていて)、年配のOBは口うるさい(想像がつきますね)。


そういうこともあって、ナチュラル詩吟教室に傾れ込んで来てくれたわけですけれども、彼には才能がある、ということはなんとなく一目でわかるんです(みんな才能はあるんですけれども)。


それで、あるとき、流派の若者がんばろうの会みたいなのがあって、彼を誘ってみたんです。実は、その会、正直全然面白くなくて、若者も集まらないし、とかくモチベーションが上がらない。それを批判したいわけではなくて、大きな組織だとそういうことって会社でもなんでもあると思うんです。


そういうわけで、その会では結構いい会場でちょっとしたステージがあって、一人一人吟じるわけですが、その彼がものすごーくかっこよかったんです。マイクから一歩離れて、マイクなんて僕にはいりません!みたいなスタンスで超堂々と吟じていました。


若者がんばろうの会とは言え、親がやってたから何となく小さい頃からやっていて、若者も通り越して大人になりましたみたいな(私みたいな)人が多いなかで、何のタイトルも段位も持たず、詩吟を始めてちょっとの彼が一番輝いていた。


私はかつて、あんな良い意味での「オレはオレ」みたいな詩吟を観たことがありません。かと言って俺酔いしてるわけでもない。堂々ということは彼のためにありき!みたいな瞬間でした。


本来詩吟が、よりよく生きるための身体能力を高める手段の一つという側面が、彼がその後、就職活動の面々で度々詩吟をやって、遂には内定まで取り付けたということが全てを物語っているように思います。


***


感動と言えばもう一つ。


最近入会した生徒さんで、とても声の小さなタイプの人がいます。もちろん、こういう人がナチュラル詩吟教室に来る由縁は、大きな声が出したいというのもそうですが、歴史や文学が好き!という人も多いのが実情です。


それで、マンツーマンのレッスンで、声の出し方の技術的なレッスンをするのですけど、その間に、歴史や文学の無駄話をしたり、身体を動かしたりして、忘れた頃に、びっくりするくらいの大きな声が出ることがあります。


ほとほとこちらがびっくりしていると、当の本人は、「普段あまり声を出さないからですかね~(小声)」と当たり前のように言っている。


ということは、普段大きな声を出さないから、出すときは出る。出るときは出るんだよー。と、身体が、何かうったえているようにさえ感じられました。つまりは、これは極端ですが、声は、普段は出さないが、出さざるを得ないもの、出す時が必要なもの、と捉えることができる。


変な話しですが、ナチュラル詩吟教室では、声が集まって、出る、ということが自然になされている。


「だから『ナチュラル』なんですね~。」と、また違う生徒さんが言いました。


ナチュラル詩吟教室ではそれを、拡げてゆきたいと思います。


***


そうそう!そもそも詩吟マンガがあったら、という話しでした。


つまり何が言いたいかというと、生徒さんの話しが最もリアリティであり、ドラマのような感動があるということです。(おいおい!ネタにしてごめんなさい!)


でも、詩吟の見た目のイメージなんかにおさまらない、詩吟における本当の面白さ、



つまり、詩吟を通して、人のかくれ持った面白さを伝えたいんです!



というわけで、詩吟マンガの監修はぜひこの私にお願いします!(なーんて、言ってる間にもう始まってたらどうしよう…、ま、いっか!そしたら小説だー)



▶他の詩吟コラムを読む
▶無料体験レッスンのお申し込みはこちら
▶「詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる」乙津理風著(春秋社)    

情熱とちくわのあいだ

ちくわになるにはあくびの喉で
 
今年に入って木曜と日曜は青山教室なるものをはじめました。教室は広くなって徐々に人も増えたりして楽しくやっています。

いろいろな時間帯にできるので、年齢別やスタンス別、内容別にクラスが分けられて、そこから仲良しの輪が広がっていったりしたらいいなと思っています。

とは言え、詩吟は一人でやるものでもあるので、輪の中にいても一人、みたいなスタンスでもいい。 というかそもそもそういうものなのでもあります。なのでワイワイ系でない人もぜひ来て欲しいです。


そして、3月初旬には四年ぶりの昇段試験を受けました。


そしてそして、今大きな原稿の締切を迎えるなどして、切羽詰まっているのでブログを書いて冷静を取り戻そうとしています。


そしてそしてそして、相変わらず、詩吟とは何か、について日々考えているのであります。


最近見つけたテーマは、


詩吟とは、


「情熱とちくわのあいだ」


です。


力強い声を発するには情熱が必要だ。
だけれども、力の抜けたふにゃふにゃの「ちくわ状態」であることも必要。


冷静と情熱のあいだ……。


否、「情熱とちくわのあいだ」である。


先日、久々に驚いたことがありました。


とても声の小さかった生徒さんが、急に破裂するような大きな声を出したのです。


何事かということでわけを聞いてみると……、


彼女が詩吟を習う以前より本腰を入れていたオペラ教室に新入りが入りました。しかもその新入りというのがロック畑出身のド素人。


練習中には譜面も見ずに、対訳本を「ふんふふん」なんて調子で眺めている。かく言う彼女は毎度譜面を覚えるのに必死である。


そんな新入りが自身初の発表会の見せた歌声。
それがあまりにも素晴らしく、オーディエンス賞をかっさらった勢いだった、とのことでした。


地道に練習してきたその生徒さんも、ご多分にもれず感動してどうしたか。


譜面をかなぐり捨てたそうです。


西洋音楽畑出身の彼女は、歌ないし音楽と言えば譜面におこさずにいられない。譜面をおこすのが当り前。譜面通り歌わないなんてもってのほか、という人でした。


そんな彼女が、「歌はロックだ!」「歌は耳コピだ!」と確信した結果、今までにない、びっくりするような大きな声が出るようになったのでした。


今までの彼女は、詩吟を練習する際にも、ドレミの譜面におこしていました。それを一切やめて、(譜面の読めない)バンドマンが耳で聞いて名曲をカバーするが如く、録音した詩吟のお手本を耳で聞いて真似した結果だというのです。


詩吟には一応譜面のようなものはありますが、声をどんだけ伸ばすかとか、どのくらいの強さ、大きさで歌うとかいうことは一切書いてありません。


だからこそ、「口伝」であり、大切なのはその強さを伝える「情熱」です。


大きな声を出せ出せと言っていた私は唖然としました。


そんな言葉は通用せず、ただ彼女を変えたのは、強い憧れと情熱だったのです!!!



でもですよ、ここで注意が必要なんです。だいたいですね、情熱ばっかりでやっていたら絶対こけますよね。たまーに情熱いきすぎた詩吟をみますけどあれは間違いですよ。


上手な人は、そこに冷静さも持っているのです。


それはもう詩吟やオペラに限らずいろいろな分野に言えることでしょう。


特に荒荒しさを見せてはいけない武道、剣道などはそうです。


まあ、しかしですよ。


この「情熱とちくわのあいだ」というのがまあ難しいわけです。


3月初旬に四年ぶりの昇段試験を受けました。


もう何度も受けているはずなのに、まあ緊張すること!


自分としては、相当分予習していきました。実際には思ったよりずーっと簡単な試験が出たのですが、思わず硬くなってしまうのです!


「わからない!どうしよう!やっちまった!」


と。後でよくよく見てみればわかるんですよ。


 そして試験中は審査員の先生に質問はNGが基本です。


「どこまでですか?」


間髪入れずに声に出してしまう……。


平然を装っている様が更にかっこ悪い……。


何年やっても失敗ばかりです。


でもね。


詩吟でド緊張してると、普段の生活の中のここぞという場であまり緊張しなくなるという効用があるんです。


詩吟の失敗や緊張はもちろんしんどい。でも、いざという本当に大切なときに上手くいったりする。


そもそも、そういういざというときの精神力をつけるためのものだったのではないかなあ、と思うことが多々あります。


昇段試験ではうっかりNG質問してしまったのですが、詩吟自体はちくわ方式でやったらとっても上手くいきました。歌いながら緊張がとけていくのがみるみる感じられたことが忘れられません。

最近は、情熱を込めながらも非常に落ち着いた詩吟をする年配の先輩方をみて、詩吟がいかに無駄な力を使わずして声量を出すか、声を長続きさせるか、というための技のためのものだということに着目しています。


とにかく難しいのが、力を抜く努力です。


我々は日々の生活で力を抜くということをあまりしません。だから難しいのです。


情熱を入れるのはむしろ簡単、ちくわになるのは難しい。


しかし、これを両立させるのが詩吟です。


そしてマスターすれば、きっとどんな場面でも、落ち着いて思い通り事が運べるのでしょう。


私も修行中です。


▶マンツーマン無料体験レッスンのお申し込みはこちら
▶『大声のすすめ。和の発声法で伝わる話し方』(晶文社)
▶「詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる」乙津理風著(春秋社)

なぜ、大きな声には「詩吟」が有効なのか?


■なぜ、大きな声には「詩吟」が有効なのか?


「大きな声が出ない」「声がこもる」「聞き返されることが多い」といった悩みをもつ方は、声に自信がなくなって自分の殻に閉じこもり身体も硬くなっている状態が多いです。


真面目な人ほど 「こうしなくては」と本来の自分に殻を覆ってしまい、ますます声が伝わらなくなって、こもったり、小さくなったりしてしまっています。


また、声にお悩みの方は、「話し方」の本や歌のボイストレーニングに通ってみたりと既に努力をされている方も多いと思います。しかし、これらは声が出ることが前提です。人に伝わる声を出すためには、「話し方」のテクニックや歌のテクニックの前に、基礎的な「声を出す」という力をつけることが必要です。


まずは、心と身体を解放し、「声を出すのが苦手だ」というような思いも捨て、自分自身が気持ちよく声を出すことに集中します。そうすることで、自分を覆っている殻を破り、自ずと人に伝わる自然な声が出るようになるのです。


では、気持ちよく声を出すには、どうすればいいでしょうか?


そのためには、詩吟が非常に有効です。


なぜなら、詩吟では、何百年、何千年も前に作られた有名な詩を、腹から大きな声に出します。「そんな言葉、普段使わないから意味がない」と思うかもしれません。


しかし、普段使わないからこそ、普段の言葉や普段の自分から離れ、自分とは全く関係のないような言葉を声に出すことで、自分の中に押し込まれてしまった心と声が目を覚まします。


普段はなかなか触れることのない美しい日本語を、気持ちよく大きな声に出してみる。ただ、それだけに集中して楽しんで声を出すだけで、ほんのわずかでも何かしら変化を感じるはずです。結果、それが声の悩みを解決する第一歩につながります。


そして、自ずと「人前で話す度胸がつき」、「言葉を明瞭に伝え」、「聞き手を感動させる力」がついてくるのです。


■楽しんで気持ちよく、繰り返し声を出す


声が通るようになるには、まず、喉や身体、そして心を解放することです。それには、ある種の技とコツを身につけること、そのために繰り返し練習する。それだけです。ですので、様々なスポーツや勉強と同様に、楽しんで取り組むことが非常に重要です。


しかし、声を出す練習で、つまらない言葉や長すぎる文章だと飽きてしまうし、疲れてしまいますよね。その点、詩吟が大声のレッスンに適しているのは、和歌や俳句などの短い文章で、日本語が最も美しく響く七五調、何百年もすたれない、読めば読むほど味が出る、知っていて徳しかない有名な詩です。


つまり、詩吟で声に出す言葉は、短くて繰り返し練習できる上、大人も子どもも楽しめる、深みのある内容なのです。


では、美しい日本語を声に出すだけだったら音読でいいのではないか?と思われるかもしれません。


音読は脳の活性化になるといわれていますが、詩吟ではこの音読にプラスして、言葉の語尾の母音を気持ちよく伸ばしていくのが特徴です。母音は喉が開く、解放する音です。母音をのばすだけで、身体の力みがゆるんでいきます。また、簡単な節をつけて音楽として楽しめます。


この母音をのばすだけで、身体がゆるみ、どんどん気持ちよく大きな声が出るようになるのです。


なお、詩吟では、普段使わなかった喉を使うことで、喉がかれてしまったりすることもありますが、それはいい変化のきざしです。その日は十分休んで、また次の日、あるいは別の日と、声を出すことを続けて行くと、自ずとかれない通る声が出せるようになってきます。


なぜなら人は、繰り返し同じことを続けると、新しいやり方を自ずと発見するからです。


だからこそ、すぐに実感がわかなくても、「自分には向いていない」「やり方が間違っているんだ」とあきらめずに詩吟で大きな声を出す習慣を続けて欲しいと願っています。


はじめはうまくいかないのが当り前です。まずは「やり方が間違っている」ということに気がつくことが大切です。それに気づけば半分は成功です。


■自分の殻を破る


さて、これまでにも、何の気なしに詩吟を始めて、小さな声の人が大きな声が出せるようになって、日常生活が楽になったという方がたくさんいらっしゃいます。


例えば、元々声が小さいことが悩みだった方も、楽しんで詩吟で大声を出す習慣をつけたところ、以前は、いざという時にさえ出なかった声が出るようになり、自分の気持ちが伝えられるようになったそうです。


他の例では、スタバで「トール」を頼んでも聞き返されてしまう方。「トール」という練習をするのではなく、詩吟を楽しんで稽古しているうちに、しっかり「トール」が頼めるようになったそうです。


また、詩吟で大きな声を出す習慣をつけてから、他人をねぎらうときも、感謝するときも、意見するときでも、自分の気持ちを込めて伝えられるようになり、人間関係が良くなった、という方……。


他にもたくさんおられますが、ここでは書ききれませんので別の機会にします。


自分でもびっくりするような声が出て、自らを覆っていた殻を破るような感覚を得たとき。それは、とっても気持ちがいいものです♪


あなたも是非、詩吟で大きな声を出してみませんか?


▶『大声のすすめ。和の発声法で伝わる話し方』(amazonで購入する)

詩吟 - それはビッグバンを起こす行為



映画『死なない子供、荒川修作』を観て


今年(2010年)5月に息を引き取った建築家であり芸術家の荒川修作。彼のドキュメンタリー映画が12/18より渋谷のイメージフォーラムで上映されています。


彼の代表作と言えば、95年「養老天命反転地」(岐阜県養老町)、2005年「三鷹天命反転住宅~In Memory of Helen Keller~」(東京三鷹市)などが衝撃的です。三鷹の反転住宅(写真)は、車がびゅんびゅん飛び交う東八道路沿いでヤッバいのがあるなーと思って運転していた記憶があります。


快適さを追求し続けそれを為し得た近代の反対をゆく、所謂 "ザ・住みにくい家" をなんだか知んないけど作っちゃった人がいるんだなーという認識でした。最初は。


この映画は、主にその「天命反転住宅」に住む人々とそのいわくつき建築物、荒川修作の支離滅裂風に見えるセリフによって構成されています。


「天命反転住宅」は、壁、天井、物置全てがビビットな色でそれぞれ配色されており、球体の部屋があったり、電気のスイッチが手の届かない場所にあったり、部屋の中にでこぼこや砂利があったりなど…。


彼はこの住宅に対し、


「ここに住むと身体の潜在能力が引き出され、人間は死ななくなる」


と言っています。


"人間は死なない"、いったいどうゆうこっちゃ。


死ぬに決まってるやんけ。と思うわけです。



人間(自分)という有機体が、環境に合わせて、敏感に、進化していく。悪天候の中でも繁殖し続けるジャングルが如く生き死にを繰り返して進化してゆく…とは?





ただの有機体であること




ある友人の話。


お気に入りの靴があって、それを履くとどうしても靴ずれをしてしまうのだが、好きすぎて、血を流してまでも履き続けていたところ、だんだんかかとの方が強くなってきて靴ずれをしなくなったとのこと。



すばらしきかな、身体!!!!!!



自分の身体というものは意識で支配しておりコントロールしてるつもりであって実はそうではない。草木と同じようにただの有機体であるということ。



"死ぬ"とはつまり意識がなくなるという意識全の捉え方であって、そもそも人間自体が意識ではなくただの有機体であるとすればそれに終わりなどという意識的な観点などありえない、ということだと思いました。





徹底的に間違っている!




荒川修作は、哲学や思想、言葉は、全く何ものでもない。全ての現象が全く違う形で常に生み出されている、と。歴史に依存するという概念も何ものでもない。「徹底的に間違っている!人間の生き方は。」とツバを飛ばして断言していました。そして常に新しいものが宇宙のビッグバンが如く生み出されているのだと。



彼が熱くなって断言するときのエネルギーは半端なく、スクリーン上でも狂人そのものです。あまりに概念を覆すため拒否反応が出ざるを得ないのですが、彼が彼自身の有機体を使って言葉を言い放つ瞬間瞬間にビッグバンのようなエネルギー体が生まれているように思えました。



何かを話す、言葉を介して伝えるときに、
そこまでしてエネルギーを生み出すことがあるでしょうか。




詩吟 - それはビッグバンを起こす行為




詩吟にはそれがあります。



詩を吟ずるという行為を媒介として、強いエネルギー物質を生み出すことができるのです。



意識下ではなく、感覚、身体が、有機物として反応せざるを得ないもの。例えば、感情が高まって大声で怒鳴り、叱咤する。される。そんな目に合えば、ビクリと身体が反応します。そんな感覚、身体が無意識に反応する行為(もちろん潜在的に誰しもが持っているもの)、と同じであり、強いエネルギー体を発すること(ツバが飛ぶぐらいの息の強さ、それにともなう腹筋の行為、など)。それが何なのか…。



詩吟は言葉の語尾を長く伸ばすのが特長です。歌でも同じかと思いますが、何か歌や音を聴いているときというのは、聞く側がそれと同じように再生しています。しかも次を予測しながら。その予測の範疇を超えて、さらに長く引き延ばされる行為(具体的には腹筋の力とエネルギーありき)が起こると「うわわわ!」という感覚に陥り、ものすごく表面的には「すんげーじゃん!」といわざるを得なくなります。



ビッグバンが今、起きたんだなあ、と。



朗読と詩吟の違い



詩吟にはそれがあって、朗読にそれはない、とは言い切れませんが、行為、使わなくして確立されない技術として、朗読にはテンポやリズムがあり、詩吟には息を強く吐くといった筋肉や内蔵レベルの上下運動があり、言葉それ自体から朗読のもつ概念や意識よりも離れたところにあるのではないか、そしてそれを行うことの行為として、細々としながらも伝えられてきたことや、詩吟がご年配に人気があることを、荒川修作が「老人ナイトクラブ」が作りたい、そうして若者がそれに憧れ早く年をとりたいというようになる、と生前言っていたことを重ねて考え、年を経ること=進化し続けること、という前向きな発想に感動しました。



▶マンツーマン無料体験レッスンのお申し込みはこちら
▶『大声のすすめ。和の発声法で伝わる話し方』(晶文社)
▶「詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる」乙津理風著(春秋社)

横浜で中華料理を食べながら吟じよう


暑さも幾分落ちついたかと思われる8月某日。快晴の山下公園は海風はあると言えども暑い。そんな中、男性が一人、海に向って朗々と何か唱えているようである。


「白鳥は〜あ〜あ〜〜〜〜〜〜」


叫んでいるようでもある。


「悲しからずや〜あ〜あ〜海の青〜」


「空の青にも〜染まずただよお〜〜」


若山牧水の和歌らしかった。横浜の空には白いかもめはいなかった。しかしながら、白い雲がぽっかりと浮かんでいた。


***


というわけで、先日、生徒さんたちが有志を募って「横浜で中華料理を食べながら吟じようツアー」を敢行してきました。


そもそもは、横浜・中華街で詩吟にちなんだ中華料理を出してくれるお店があるという情報を生徒さんが入手してきてくれたのが始まりです。


その名も、「五感で感じる!サプライズ・詩吟コース」(!!!!!)


参加者は男女6名(特別コースのため人数制限有り)。夕刻早めに集合して、山下公園で海に向ってウォーミングアップも兼ねて吟じてきた模様(上記写真)。


さて、いよいよお店に到着です。壷料理でも有名な横浜・中華街「金香楼」。人気の壷ランチはテレビでも紹介されたそうです。




まるで映画のセットのような内装!


さて、どんなお料理が登場するのでしょうか……?!




お料理の下に金魚が(!) これは、北宋の政治家・范仲淹の「江上漁者」という漁師の苦労を詠った漢詩をモチーフにしたもの。




孟浩然の「春眠暁を覚えず」で有名な「春暁」をモチーフとした「名古屋コーチンの四川風香り炒め」。 この続きに「処処啼鳥を聞く」とあるからでしょう。鳥のオブジェが乗っています。しかし鶏肉を食べるという……。




こちらは、「農家に感謝!特製黒チャーハン」。ぱっと見は「植木鉢の植物」。唐の詩人・李紳による農家の苦労を讃える漢詩「農を憐れむ」をモチーフとしたもの。




この泡を吹いているいかにもサプライズなものは「旬の味わい蟹料理」。中国のことわざがモチーフ。詩吟にはありません。




「黒酢入り酢豚の江雪仕立て」。唐の有名な詩「江雪」を見立てたもの。お店の方が白雪をまぶしてくれるそうです。


最後にデザート。煙もくもく花火までついて豪華です。煙がたちこめる李白の詩「廬山の瀑布を望む」 を吟じます。

サプライズ詩吟ツアー in 横浜・金香楼。詩吟にちなんだお料理が続々登場。李白「廬山の瀑布を望む」を吟じています。
Posted by ナチュラル詩吟教室 on 2015年8月22日


お店の方もびっくりで度々拍手が起こったそうです。中華懐石料理で量も丁度よく大変美味しかったとのこと。詩吟好きな方もそうでない方にもおすすめです。予約制の人数制限もあるそうなので事前にご確認ください。

▶「五感で感じるサプライズ!詩吟コース」 - 横浜中華街・金香樓



▶他の詩吟コラムを読む
▶無料体験レッスンのお申し込みはこちら
▶「詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる」乙津理風著(春秋社)     

私事で恐縮ですが、バリ島へ行ってまいります


私事で恐縮ですが、バリ島へ行ってまいります。


ナチュラル詩吟教室を始めるより前から、neohachiという詩吟とシンセサイザーの二人組ユニットでライブ活動をしておりまして、CDをリリースしたり、韓国でライブをやったりしています。


今年5月には、三重の山の中の馬場でライブを行いました。


上記動画でその様子がご覧いただけますが、百人一首で有名な「春過ぎて〜」で始まる持統天皇の和歌を歌ったりしています。(『LOVECADIO HEARN』というCDに収録されています)


neohachiのモットーは、詩吟を広めるためにやっている、ということでは一概にはないということ。楽しくやること。とにかく自分たちが信じる好きな音楽をやることです。


ナチュラル詩吟教室では詩吟を広めるためにやっているのに、なぜそんなことを言うのかというと、 詩吟とは言え、世界中の土着的な音楽(所謂ワールド・ミュージック)でありたいと常に願ってるからです。私は日本が好きだからこそ、ニホンというものにしばられたくないと思っています。


私が狂ったように詩吟に熱中していた若い頃、もちろん今でもそうですが、どんどん世界がせまくなってくるような危機感を感じていました。詩吟(邦楽)では五音階しか使わず、メロディはほとんど決まっていて、微妙に平均律(ドレミ)ともずれていて、洋楽器と合わせるのが難しい。


例えば鍵盤やギターなどの洋楽器とのセッションによる一体感から得られる幸福感に、なかなか到達できない。かと言って、詩吟だけの世界にとどまりたくない。


うーん。一体どうすれば……、と悩む日々がありました。


そんな時、たまたまテレビでみた、チベットの民族の歌に衝撃を受けました。


なんと、詩吟とそっくりなのです。


しかも、屋外の草原というか荒れ地の、住居と思われるテントの脇の広場で、円になってみんなで、それはそれは楽しそうに生き生きと歌っている。それが本当に素晴らしくて感動的で、かつ詩吟の発声とメロディにそっくりだったのでした。


それを観て私は、感動のあまり涙がボロボロと流れました。


同じことをやっている人が外国にもいる。しかも、野外で、そして、楽しそうに……。


そこで私は確信しました。


ああ、詩吟は民族音楽なんだなあ、と。


五音階しか使わない詩吟は、世界中の民族音楽とほぼ同じです。それでも、現代の日本の中では、十二音階とか或らゆる音楽に追いやられて肩身のせまい思いをしている、と私が勝手に思っていたのでした。


それを経て、私はむくむくと自信が湧いてきました。これでいいのだ、と。


いろいろ調べていくと、或らゆる国で、民族音楽と現代音楽が交差して、カウンター・カルチャー(前世代を否定する)があって、どんどん新しい音楽や古い音楽が交互に折り混ざって、その時代時代に楽しむことをしている、ということがわかりました。


私が無理をして反抗的に詩吟以外のものに目が向いているのではなく、それはごく自然なものだということがわかりました。確かに前世代を否定するパンク精神的なものがなかったわけではありませんが、もはやそのような破壊的な思想はありません。


だから、詩吟とシンセサイザーと言っても、詩吟(ニホンの伝統芸能)と〇〇の融合、といった奇をてらった気持はありません。ただ、いいと思って好きな音楽を紡ぎだしている、ただそれだけです。伝えたいメッセージもありません。


しいて言えば、誇りはあるけれども、うちの国の伝統音楽だから凄いでしょ、というような傲慢にはなりたくないという意味で、国境を越えていいものはいいねえ、という共有ができれば幸せかなーと思っています。


neohachiの私含めメンバー二人ともそれぞれ仕事(相方はウェブデザイナー、私は詩吟講師)を持っているので、どうにか音楽活動で食っていこうという無理をせず 、楽しくマイペースにやってはいるのですが、赤字になっては本末転倒なので、ある目標を立てました。それは、


「ギャラを貯めてバリ島へ行こう!」


というものでした。


なぜ、バリかというと、単純にリゾートで思いっきり遊びたいというのもありますが、私は学生時代にバリに行ったことがあって、そのときに、古典で民族音楽であるガムランが街中に響いていて、街中の子どもから大人までみんなが練習している。聞けば、日々新しい曲が生れているという。


伝統音楽を守る、ということにしばられていない、その日常にある古くより伝わる音楽のあり方にいたく感銘し、詩吟もこうあれたらいいな、と思ったのでありました。


それからずっと、バリへの憧れがありました。


そしてこの度、neohachi結成10年にして「ギャラを貯めてバリ島へ行こう!」の夢が叶うこととなりました。


初めは笑い話で、まさかとは思っていましたが、本当にこの度、まさか行けることになりました。まあ、激安ツアーではありますけれども、夢が叶う喜びというのは、ちょっと何とも信じ難いものです。


こういうことってあるんだ……、という。


ということは、もっと頑張って次はドイツへ!なんてさらなる欲がでたりして。



ところで、10月にはアメリカで詩吟ライブをしてきます。こちらはまじもんの文化交流です。


詩吟の価値が歴史的(戦中戦後も含め)にみてどれほどだったのか。そして、今はどうなのか。それから、今後どうすればいいのか、についてよく考えています。そのためにも、広い視野を持ちたいと思っています。


というわけで、せっかくなので、一発詩吟を吟じてこようと思います。


バリで。


▶他の詩吟コラムを読む
▶無料体験レッスンのお申し込みはこちら
▶「詩吟女子:センター街の真ん中で名詩を吟ずる」乙津理風著(春秋社)